モーリタニアを代表する歌姫ヌーラ・ミント・セイマリ(Noura Mint Seymali)は、同国の豊かな伝統と現代性を象徴する存在です。彼女の父セイマリ・ウルド・アフメッド・ヴァル(Seymali Ould Ahmed Vall)は有名な音楽家であり学者、継母は「砂漠のディーヴァ」と称された国民的歌手ディミ・ミント・アッバ(Dimi Mint Abba)。祖母ムニナもアルディン奏者として知られ、彼女はまさに音楽一家に育ちました。グリオー(イガウィン)の家系に生まれたセイマリは、伝統を継承する語り部であると同時に、新しい音楽を切りひらく挑戦者でもあります。13歳で継母のバック・ヴォーカルとして舞台に立ち、やがて自作曲を提供するまでに成長。その後は夫でギタリストのジェイチ・ウルド・シガリ(Jeich Ould Chighaly)とともに結婚式や儀式で演奏を重ね、徐々に独自のスタイルを築き上げていきました。女性のみが演奏を許されるハープ=アルディンを奏でながら放つ妖艶かつ力強い歌声は、まさにモーリタニアの伝統と革新の象徴です。 2006年以降ローカルでのアルバムやEPを経て、2014年の世界デビュー作『ティザンニ』、2016年の『アルビーナ』で国際的評価を獲得。2015年にはアフリカ大陸の音楽賞AFRIMAで“最優秀北アフリカ女性歌手賞”を受賞し、デイモーン・アルバーンとのヨーロッパ・ツアーにも参加しました。日本には2017年に「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」で初来日を果たし、圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了。その名は一気に広く知られるようになりました。そして2025年にはWOMEX Artist of the Yearに選ばれ、現代アフリカ音楽を代表するアーティストのひとりとして確固たる地位を築いています。 その彼女が9年ぶりに発表する渾身の新作が本作『イェンベット ~ デザート・サイケの新境地』です。夫ジェイチの灼熱のギターに、ベーシストのウスマン・トゥーレ(Ousmane Tour)、ドラマーで共同プロデューサーのマシュー・ティナリ(Matthew Tinari)が加わり、さらに《ムドゥ・モクタール》のマイキー・コルトゥン(Mikey Coltun)が制作を支えています。アルバムはサハラの熱気と都市的な鋭さを併せ持ち、ラディカルかつトランス感覚に満ちたサウンドを響かせます。 冒頭の「Lehjibb」では、まずアルディンと歌声が静謐に響きわたり、続いて同じ旋律がフランジを効かせたギターで再演され、怒涛のリズム隊が加わります。古代の詩と未来的なロックが交差する瞬間であり、このアルバムの方向性を鮮烈に示す場面です。全編を通じて短いインタールードが挿入され、物語的な流れを編み出す構成も特徴的。セイマリの歌詞は愛や祈りから社会的なメッセージまで幅広く、伝統詩を引用しつつ新たな詩を織り交ぜるグリオーならではの手法が息づいています。その歌声は低音から鋭いユーユーまで自在に跳躍し、砂漠の空気を震わせる迫力で聴く者を圧倒します。 本作は、砂漠のブルース、アラブ音楽、ロック、そしてサイケデリックな感覚が渦を巻く、まさに「今聴くべきアフリカ音楽」の決定版です。伝統と革新がスパークする圧倒的なサウンドは、初めて彼女を知る方にも強くおすすめできます。砂漠の詩と未来への響きが交錯する新しいクラシック、その誕生をぜひ体感してください。