10月31日(月)

 朝4時半に起床。荷造りをして、シャワーを浴びた後、ポールくんを起こして、ウォータールー駅まで送ってもらうことに。今日のユーロスターはなんと6時半発。ポールくんには悪いことをしてしまった。

 午後10時20分にパリの北駅に到着。それから電車に乗り換えて空港へ。なんとか11時過ぎに到着して、無事にチェックインを済ませることができた。エア・フランスの成田行きは、今日も日本人客でいっぱい。壮年の人たちのツアーが多く、言葉も通じず旅慣れていないせいか、チェックイン・カウンターが大混雑している。大きな荷物を抱えた団体が道をふさいでしまって、他の人たちに迷惑をかけていたようだ。いくら外国旅行のほうが安いといっても、なんでわざわざ外国にまでやってくるのか。どの人も、外国に戸惑っている姿がアリアリで、あまり楽しそうにも見えない。ぼくはそんな旅行なら、したいとは思わないが…。

 なんてことにアタマにきながらも、疲れているせいか、飛行機に乗ったら、さっそく熟睡体勢。昼食でワインを少し飲んだら、すぐに眠れてしまった。気がついたら、成田まであと2時間というところ。やっと日本が近づいてきた。2週間の旅ももう少しで終わりだ。

 

10月30日(日)

 ウォーメックスの最終日はいつも10月最後の日曜日。ヨーロッパでは夏時間から冬時間に変わる。昨年もそれを忘れて、みんなが寝ている時間にレストランで一人さびしく朝食を取ったのだが、今年もやっぱり同じ失敗をしてしまった。8時にレストランに行ったら、まだ誰もいない。給仕をしてくれているおばさんから時間が変わったことを知り、部屋に戻ってもう一度寝ることに。

 再び起きて、ポールくんたちと一緒に食事をしてから会場へ。今日はBBCが主催する<ワールド・ミュージック・アワード>のノミネートが行われていた。ただ、ほとんどの人がそんなものに関心を持っていない。会場の外では、また来年の再会を誓って、お別れ会があちこちで開かれている。ぼくも目にした同志たちと、ひとしきりの談笑を楽しんだ。
 ポルトガルからやってきたエルデルくんも、アラブ=アンダルース音楽のアキムくんも、良い商談がまとまったようで、すごく機嫌が良い。みんな良いウォーメックスだったと口々に言っていた。ぼく自身は、別に新しい取り引き先が見つかったわけではなく、そういう意味で良かったかどうはわからない。でも、多くの人たちと親交を深めることが出来たという点では、最高のウォーメックスだった。ウォーメックスは3回くらい続けて来ないと意味がないと、ベン・マンデルソン兄貴は以前言っていたが、確かにその通りだということが、3回目の今回、とても良くわかった。

 午後2時にはそんな会場を後にして、再びポールくんの運転する車でロンドンへ。帰りは思った以上にすいていて、午後9時にはロンドンに到着。日本に15年も滞在していたポールくんが日本食を食べたいというので、久しぶりに日本料理のレストランで夕食を取ることになった。お寿司もあったが、日本以外で美味しいお寿司を食べたことがないぼくは、ひじきやほうれん草のおひたし、焼き魚などを注文。日本酒も少し飲んで、リラックスすることができた。
 ポールくんの自宅に到着したのは夜の11時。明日は朝からパリへ移動しないといけないので、今日は早めの就寝だ。仕事が終わった充実感もあって、今日はすぐに眠れそう。改めて、すばらしいウォーメックスだった。

 

10月29日(土)

 今日も朝からウォーメックス。10時には会場に行って、打ち合わせをスタートさせる。主要な取り引き先との打ち合わせは昨日の早い時間に終ってしまったので、今日ははじめて会う人たちばかりだ。そしてほとんどが、向こうからオファーしてくれたところだ。

 その中で唯一、こちらから声をかけたのがドイツのピラーニャ。と言っても、ピラーニャはアオラさんがすでに日本配給しているので、仕事の話ではない。なんとサンプル盤をもらうためだ。実は親友のベン・マンデルソンが久しぶりにピラーニャからプロデュース作を発表すると聞いたので、そのアルバムをもらいに行くことにしたのだ。ピラーニャのスタッフのうち、ブラジル人の旦那さんを持つ(ドイツ訛りの妙なブラジル語を話す)ベチーニャさんは以前から知っている。そこで彼女とアポを取って、さっそくサンプルをおねだりした。仕事とは関係のないぼくなんかにも気前良くサンプルをくれるベチーニャさんは、本当に良い人だ。

 そんなピラーニャを最後に、予定された打ち合わせが全部終了。これから会場が閉まる6時までの間に、スタンドを全部回ってみることにした。取り引き先探し、というより、ここからは自分で聞くためのサンプルをもらうため、という感じだ。最終日の土曜日になると、どこも予定された打ち合わせは終わっていて、リラックスしている。だからアポなしでも、担当者と簡単に合える。アポなしの気軽なスタンド回りには、この日が一番良い。おかげで、今日もたくさんのサンプルをゲット。日本に帰ってから聞くのが楽しみだ。

 そんな感じでブラブラ歩いていたら、昨日ミーティングしたミスター・ボンゴのデイヴィッドくんにいきなり呼び止められる。紹介したい人がいるというから、誰かと思ったら、なんとワールド・サーキットのサラさん。ニック・ゴールド社長も来ているから、どこかで話をしようということになった。
 実はニックとは以前も会ったことがあって、そのときにはキューバで見つけたアルセニオ・ロドリゲスの貴重な未発表録音をテープで聞かせてくれると約束してくれたのに、いつになっても届かなかった。だから、いつか会って催促してやろうと思っていたので、これは都合が良い。ニックはすぐにつかまって、さっそくそのときの話をしたら、申し訳ないと平謝り。今度は間違いなく送ると約束してくれた。なんでもそれはアウト・テイクのマスターで、アルセニオは演奏の後、できの悪さに怒って、メンバーを大声で怒鳴りつけているのだそうだ。でも40年代後半の全盛期のアルセニオだから、アウト・テイクでもつまらないわけがない。ニックから送られてくるテープが楽しみだ。

 夜は親友、というか兄弟とも思っているベン・マンデルソン兄貴と二人で夕食。今後の予定についてゆっくり話し合うことにした。ベンとは昨年、インドネシアで一緒に仕事をしたのだが、あれからプロデュース仕事が多くなって、なかなか次の仕事を進められないでいた。忙しさはまだ続いているらしく、来年の前半までは予定が入っているのだそうだ。
 そこで来年の後半あたりに、どこかで一緒に仕事をしようということになった。今度のターゲットは、ぼくのアイディアで<ドゥニア音楽>に決定。<ドゥニア>とは、インドネシア語、スワヒリ語、ヒンディー語などで<世界>を意味する言葉。なので、直訳すると<ワールド・ミュージック>になってしまうが、<ドゥニア>の意味する世界観と英語の<ワールド>の世界観とは、もちろん違う。そこがポイントだ。ぼくたちは<ドゥニア>という言葉の持つ世界観をどう音楽で表現することができるかを、今後考えることになった。詳細については、企業秘密なので書けないが、ベンが今後どんなアイディアを思いついてくれるか、楽しみだ。

 昨日に続いて、今日もショウケースはパス。ベンやピラーニャのベチーニャさんとゆっくり飲むことにした。そこにブラジルでぼくのアルバムを配給してくれたことのあるニキータ・レーベルのフェリッペ・リョレーナ社長も乱入して、ポルトガル語と英語と(ベン・マンデルソンが話す)妙なスペイン語が入り混じった会話に。でも、全員が何を言っているのか理解しているのだから、まったく問題がない。今日も、これがウォーメックスだ、という感じの一夜になった。

 

10月28日(金)
 
 今日もひたすら取り引き先との打ち合わせ。昨日と同様だ。
 今日ミーティングした人たちとも、すでに長い間一緒に仕事をしているので、取り引きそのものについては、いまさら話し合うことは何もない。それより、今後はどのように仕事を進めてより良い関係を築いてゆくかが話題の中心だ。音楽界、特にCD業界の状況が良くないのは、世界中どこも同じだ。だから相手だって、むやみにもっと売ってくれ、なんてことは言わない。もっと現実的な方法を探そうとする。でも、こんな話のほうが、景気のよい話ばかりが飛び出す新しい取り引き先との話よりも、ずっと難しい。
 これも昨日の日記でも書いたが、ぼくは今年のウォーメックスで、新しい取引先を探そうという気はあまりない。こちらから会見をオファーした会社がひとつもないウォーメックスなんて、今回がはじめてだ。でも、当社がすでにヨーロッパを代表するレーベルのアルバムを日本で配給していることは、誰もが知っているので、売り込みはものすごく多い。今回はそのうちのいくつかだけ、どうしても断れない事情があって会うことにした。ただ、これは仕方ないことだが、こういう場合のハードルはすごく高くなる。夕方から3社と話をしてサンプルをもらったが、これらが余程すばらしいアルバムでない限り、取り引きをはじめることはないだろう。あまり期待を持たれると困るので、彼らにはそのことを正直にお話した。

 夜はティナリウェンのマネージャーをやっているジャーナリストのアンディ・モーガンさんと食事。会場の近くのシーフード・レストランで貝料理を楽しむ。ティナリウェンの次の作品は来年早々に録音されるのだが、それをどう作り、どうプロモートするかが今夜の話題だ。今度はジャスティン・アダムスがプロデュースするのだそうで、前回の作品はフランスっぽい音だったが、きっと今度はイギリスっぽい、堀の深い温かいサウンドになることだろう。ティナリウェンにはそっちの方が合っているような気がする。

 夜のショウケースはあまり面白そうなものがないので、今夜は思い切って全部パス。会場にあるバーで、友人たちとゆっくり飲むことにした。今日到着したスターンズのロバート社長に、パリで会ったベン・オールドフィールドくん、そしてベリーズのストーントゥリーを主宰するイヴァン・ドゥラーンくんたちが加わって、楽しい音楽談義だ。イヴァンくんは、当社で配給した『パランダ』などのプロデューサーだが、今回はじめて実際に会ったら、予想したとおりのナイス・ガイ。ロバート社長にも負けないくらいの音楽好きぶりを発揮していた。またロバートさんとベンくんあたりは、仕事上ではライヴァルでもあるはずだが、音楽の話をしていると、みんな子供のように無邪気になる。国籍も言語も違う人たちと、こうしてゆっくり話ができるのが、ウォーメックスの楽しいところだ。そういう意味で、今晩はショウケース以上にウォーメックスを満喫できた。

 

10月27日(木)

 今日はウォーメックスの初日。パスをもらう手続きをしないといけないので、早めにホテルに出る。もちろんすでに支払いなどはすませているので、手続きは簡単だ。思ったより人が少なかったので、すぐに終わった。
 さっそく会場に行ってみると、スタンドの準備は終わっていて、あちこちから知り合いが声をかけてくれる。みんな昨年のウォーメックス以来、一年ぶりの再会だ。どの人とも、最初は取り引きとかで知り合ったのだが、こうして毎年会っていると、妙な親しみを感じてくる。ワールド・ミュージックの状況が厳しいのは世界のどこでも同じだが、その中で頑張っているという意味では、みんな同志。いや、戦友みたいなものだ。

 午後からは、そんな取り引き先の人たちに挨拶回り。近況を報告し合う。常にメールでやりとりしているので、新作の情報などはすでに知っているから、ここで話されるのはもっと長いタームの事柄だ。いつもやり取りしていている人たちでも、やっぱりこうして顔を見合わせて話すと、意外な情報も入ってくる。長いタームの話だと、ぼくのほうでも、こういう内容にして欲しいとか、いろいろ意見が言える。やっぱりたまには顔を見合わせて話さないといけないということだろう。
 実は、ぼくは今回のウォーメックスで、新しい取り引き先を積極的に探そうという意欲をほとんど持っていない。すでにラスやワールド・ミュージック・ネットワークなど、いまのヨーロッパでもっともアクティヴに新作を発表している会社と取り引きしているし、これ以上取り引き先が増えたら、当社ではとてもまかないきれなくなってしまう。それに、彼ら以上の取り引き先が見つかる可能性が少ないという現状もある。だから今回は、そんな従来の取り引き先との付き合いをより深めるのが一番の目的。なので、事前にたくさん送られてきたミーティングのオファーも、ごく一部しか受けなかった。
 おかげで、今日のミーティングはすべて取り引き先とのもの。それぞれとじっくり時間をかけて、今後の仕事のやり方などを話し合った。こういうミーティングはとても充実している。

 夕食はワールド・ミュージック・ネットワークの社員3人と一緒にスペイン料理屋さんへ。これは事前に約束していたことだから、ぼくの支払いだ。当社の担当をしてくれているエマさんはまだ24歳。さらにこの会社にはルイースさんという25歳の女性もいる。ともにイギリスのワールド専門の会社の社員ではもっとも若い女性たちなので貴重だ。今夜はそんな女性二人に囲まれて、ビールとワインを楽しんだ。

 夜はいつも通りショウケース。ただ、昨年と同様、今年もあまり面白そうなものはやっていない。今日見たのは、エルメート・パスコアールくらい。ただショウケースということで緊張感もなかったのか、なんともヒドい内容で、途中で帰る人がたくさん出てくるほどだった。

 そんなこんなで午前1時に帰宅。初日で緊張していたのか、今日はすごく疲れた。

 

10月26日(水)

 朝のうちに細かい仕事を済ませて、午後にはニューキャッスルに移動。ロンドンからニューキャッスルは電車でも3時間半から4時間かかるそうだが、今日はポール・フィッシャーくんとその奥方由紀さんと一緒に車で移動することになった。これがたいへんなロング・ドライヴ。結局、到着したのは夜の9時で、ウォーメックスのオープニング・セレモニーは見ることができなかった。ロバート・プラントが出るかも、なんて噂が流れていたセレモニーだが、本当に出演したのだろうか。ちょっと気になる。

 しかし、そんなことを忘れさせてくれたのが、到着したホテルだった。ニューキャッスルの郊外にホテルを取ってもらったのだが、これが1泊38ポンドとは思えないくらい、すばらしいホテル。ロッジみたいな作り。部屋は6つしかないので、とても静かだ。しかも、通りの向こうは牧場。反対側は雑木林で、森の公園みたいになっているらしい。そしてさらに、ロッジの横にはパブがあって、すぐ隣の工場で作っている地ビールを楽しめるのだから、たまらない。さっそくポールくんたちとビールを飲みに行ったら、パブは地元の人たちでいっぱい。それもそのはず。こんなビールは飲んだことがないと思うくらい、すばらしく濃厚な味わいの逸品だった。
 ウォーメックスがなかったら、2〜3日ここでゆっくりビールだけを味わいたい。そんな気持ちにさせられる、すばらしいホテルだ。

 とは言え、さすがに疲れているので、今日はゆっくりビールを飲んでいる余裕はない。11時には部屋に戻って、早めに就寝。さあ、明日からウォーメックスだ。

 

10月25日(火)

 今日は朝のうちにロンドンに移動しないといけないので、朝から大忙し。朝は6時に起床。早めにシャワーを浴びて、朝食を取る。この時期のパリの6時はまだ夜明け前で真っ暗だ。さすがにリスボンよりずっと寒いけど、これくらい寒いほうが気が引き締まって、良い。

 7時半にホテルを出て、地下鉄で北駅へ。ユーロスターにチェックインして、ロンドンに向かう。約3時間の汽車の旅だが、空港までの移動時間や待ち時間を考えると、飛行機で移動するよりもこちらのほうがずっと早い。パリの北駅と同様、ロンドンの駅も市街地に近いウォータールー。そこで地下鉄に乗り換えて目的地までは、たったの15分だ。ヒースロー空港なんかに着いたら、とてもこうは簡単に市街地に出られない。

 お昼にライスUKを取り仕切ってくれているポール・フィッシャーくんと食事をしながら打ち合わせ。食事が済んだら、さっそくトピック・レーベルの事務所に向かった。トピックは50年もの歴史を持つ英フォークの老舗レーベルだが、最近になって当社と取り引きをはじめている。ぼくは英国のフォーク音楽にはほとんど知識がないが、これを機会に勉強させてもらおうと思っている。
 そのためにも、トピックにはいろいろご協力いただかないといけない。サンプル盤もそうだが、勉強するための資料をどう入手するかなども、この際だから教えてもらうことになった。さすがに創立50年の会社だから、事務所にいるのは年配の方ばかり。でも、みんなとても親切で、ぼくのような素人の質問にも気軽に答えてくれる。大事に保管してあるオリジナルLPも見せてもらえたのは大感激だった。

 夕方はアフリカ音楽ファンにはおなじみのスターンズを訪問。ロバート社長と担当のゼップくんに挨拶した。彼らとは何度も会っているし、メールを日常的に交換しているので、本格的な打ち合わせの必要はない。新作のサンプルを数枚もらったところで、仕事の話はおしまい。近くのバーに場所を移して、ビールを片手に音楽談義になった。
 ヨーロッパに来て思うのは、ワールド・ミュージックのレーベルに関わっている人は、みんな本当に音楽が大好きだということだ。スターンズのスタッフもそれは同じ。ロバート社長も、フランコの偉大さを語りはじめたら、いつになっても終わらない。フランコは110枚ほどのアルバムを残したそうだが、そんな多作のアーティストのそれぞれのアルバムについて、あれはこうだった、これはどうだったと、全部覚えているのだから、スゴいとしか言いようがない。

 そんな音楽談義にふけっていたら、もう夜の9時。ロバート社長もぼくも、明日からはウォーメックスだ。今日はあまりゆっくり飲んでいられない。早めにお開きして、ぼくは今日の宿泊先であるポールくんの自宅に戻ることにした。

 

10月24日(月)

 今日の仕事は午後からなので、8時までゆっくり寝て、ゆっくり朝食。ホテルの近くを散歩する。ホテルに戻ったら、取引先のブダ・ムシックのジルさんがホテルを訪ねてくれた。実は今回、パリでは彼の事務所の近くにホテルを取ってもらったのだが、ぼくが昨晩ちゃんとチェックインしたかどうか心配になって見に来てくれたようだ。ジルさんには、パリからロンドンまでのユーロスターの切符まで予約してもらうなど、今回はいろいろお世話になってしまった。

 お昼にホテルを出て、地下鉄で北駅へ。明日乗るユーロスターの場所を確認してから、やはりパリの重要な取引先のベン・オールドフィールドくんと、北駅の近くのレストランで打ち合わせ。彼は以前メロディという大手ディストリビューターで働いていたのだが、会社がつぶれてからはフリーでディストリビューターをやっている。でも、さすがにフリーになると、一生懸命仕事をする。以前は一週間もメールの返事がないのが普通だったのに、最近は土曜や日曜でもメールしてくるくらいだ。今日の打ち合わせでの新作アルバムの売り込みぶりも、なかなかスゴいものがあった。
 ただ嬉しかったのは、シーフード・レストランですばらしい昼食をご馳走してもらえたこと。ベンくんはイギリス人だが、パリに住んでもう18年になるという。話したり食事をしたりしている姿は完全にフランス人だ。昼間からワインを飲み、食事を楽しんでいる。そんな彼のおかげで、久しぶりに本格魚介料理の昼食と白ワインをたっぷり楽しむことができた。

 ベンくんとの打ち合わせの後はホテルに戻って、少し休憩。1時間ほど寝た後、調べ物をして次の打ち合わせに備える。夕方6時から、朝会ったブッダ・ムシックのジルさんの事務所を訪ねないといけない。
 ブッダはもう18年もの歴史を持つインディ・レーベル。いまのフランスで、ワールド・ミュージック/民俗音楽のアルバムばかりをこれだけたくさん出し続けていている会社は少ない。<世界の音楽>というシリーズはもう300タイトルを超える。さらに当社で配給しているアスマハーンなどアラブ音楽の復刻ものなど、地味だけど内容の優れたアルバムを、合計400枚も発売している。しかもジルさんは、そういったアルバムのほとんどの制作を手がけながら、国外への配給の仕事もしている。本当に働き者だ。
 ちなみにジルさんはいま55歳。ぼくより10歳くらい年上だ。サンビーニャがいま創立8年だから、ちょうどぼくと同じ年くらでレーベルをはじめたことになる。その前にはインドネシアに半年も滞在するなど、世界のあちこちを旅したのだそうで、そんなところもぼくと似ている。
 だとしたら、ぼくも創立18年で400タイトルくらいのカタログを持てるよう、頑張らないといけない。

 打ち合わせと言っても、ジルさんとはいつもメールでやり取りしているので、細かい話をする必要はない。これまで配給させていただいたアルバムについての感想を話していたら、だんだんとこれまで訪れた国の話になり、話が大きく盛り上がったところで、せっかくだからどこかで夕食を取ることにしようということになった。
 ジルさんは、さすがにフランス人。ワインや料理に対する知識も深い。さっそく事務所の近くのレストランを予約。近くのバールで軽く飲んだ後、食事をすることになった。ジルさんにご馳走になったのは、すばらしい子羊の料理と赤ワイン。子羊はぼくの好物で、日本でもときどき買って自分で料理しているが、さすがに今日ご馳走になった子羊は、材料も料理の腕も、ぼくが自宅で食べるそれとは圧倒的に違う。本当に美味しい料理だった。

 ホテルに戻ったのは夜の10時。さすがに2度目のワインだから、酔いが回ってきた。明日は早く起きないといけないので、今日はメールもチェックしないで寝ることにした。

 

10月23日(日)

 昨晩ファド・ハウスでワインを飲みすぎたせいで、さすがに今朝はちょっとツラい。それでもなんとか7時過ぎに起きだして朝食。その後、荷造りとホテルのチェック・アウトをすませて、9時過ぎに空港に向かった。今日の目的地はパリだ。

 リスボンからパリまでは3時間弱のフライト。すぐに着いてしまう。ただ、ここで問題になったのが、空港からホテルのあるシャロンヌまでの電車と地下鉄の乗り継ぎだ。なにしろパリにやってくるのは久しぶり。市内の地下鉄の路線図なんてまったく覚えていない。
 空港からガール・デュ・ノール(北駅)までは電車。そこで地下鉄に乗り換えるわけだが、そこでふと思い出したのが、当社でアルバムを配給しているアルジェリア出身の歌手アキム・エル・シカメヤのことだった。彼はこの北駅からそれほど離れていないところに住んでいるはず。もしもヒマにしていたら迎えに来てもらおうと思って、電話してみることにした。そしたらラッキーなことに、アキムくんはちょうど公演旅行から帰ってきたところ。今日は何も用事がないとか。しかも、せっかくパリまで来たのだから、ホテルに行く前に事務所に遊びに来いと言ってくれたので嬉しくなった。
 アキムくんは家族とともにパリに移住。もう5年ほどこちらで生活しているのだそうだが、事務所にあるのはアルジェリアのものばかり。さっそくアルジェリア・スタイルのお茶を入れて、たくさんのお菓子(もちろんすべてアラブ・スタイルのもの)まで用意してくれた。ただ、そうして並べてくれただけで、彼も事務所の持ち主であるサリムさんも、手をつけようとしない。不思議に思って尋ねたら、なんといまラマダンの真っ最中なのだとか。それじゃ、ぼくだけ一人でお菓子を食べるわけにはゆかない。結局、食事が許される夜の7時まで、お茶とお菓子を目の前に、3人でガマン大会をすることになった。
 アキム・エル・シカメヤはアルジェリア出身だが、ライの音楽家ではない。彼が歌うのは、イベリア半島がイスラム化されていたときに生まれたアラブ・アンダルース音楽だ。彼はそれをモダン化して、汎地中海音楽とも言える新しいサウンドをバックに歌っている。当社で配給しているアルバムで彼はそんなスタイルを作り上げた。ただ、音楽はモダン化されているけど、彼が歌っている作品の多くはとても古い時代に生まれたもの。いまヨーロッパで、こんなに古い起源を持つアラブ・アンダルース音楽をモダン化しようと試みているのは、アキムくらいしかいない。
 そんな個性的な音楽をやっていることは、強みではあるけど、同時に弱みでもある。というのも、プロモーションを難しくしているからだ。たったひとりで、アルバムを1枚だけ出して、いくらアラブ=アンダルース音楽のすばらしさを叫んでも、なかなか聞いてくれる人はいない。
 そこで今日は、せっかくのお菓子を食べられるまで時間があるので、アキムと一緒にアラブ=アンダルース音楽をどうやってプロモートしてゆくかを考えることにした。そこで思いついたのが、コンピレーション・アルバム。このジャンルのこれまでの録音を集めて、編集盤を出すのはどうだろうか、ということになった。
 アキムによると、古い世代のマスターたちの録音はフランスのオコラにあるとか。さらにアルジェリアやモロッコにもいくつかの専門レーベルがあって、伝統スタイルの録音がある。またアラブ=アンダルース音楽をモダン化した最初のマスター(名前を忘れてしまったが、今年79歳で亡くなってしまったのだとか)の録音もフランスのレーベルにあるらしく、それとトルコや他の国に散らばったアラブ=アンダルース音楽を加えて、最後にアキムの録音(新作のほかにもう一枚アルバムを作っている)を加えたら、なんとか編集アルバムが作れそうな感じだ。
 もちろん、こんな編集盤はぼくだけが日本で発売しても仕方がない。そこで思い出したのが、当社で配給しているワールド・ミュージック・ネットワークの<ラフ・ガイド>シリーズだ。社長のフィル・スタントンとは、ちょうどウォーメックスで会うことになっているので、彼にお願いしてみるのが良いかもしれない。<ラフ・ガイド>シリーズから発売されれば、日本では当社が配給することができるので、問題がない。アキムもウォーメックスに行くつもりだというので、CDRにラフな選曲を入れてもらって、一緒にフィルに会いに行くことになった。もしも彼と話がついたら、面白いことになりそうだ。

 そんな話をしているうちに、午後7時に。やっとお茶とお菓子に手をつけられる時間だ。彼らは一日中食事をしていないので、すごい食欲。お菓子を食べたすぐ後に、近くのレストランで夕食をすることになった。ここでもぼくの倍くらいのアラブ料理を平らげて、ご機嫌状態。そうして事務所に戻ったら、もう夜の9時だ。ぼくも今朝早かったので、さすがに疲れを感じてきた。まだまだ元気いっぱいの彼らとは別れて、ホテルに向かうことに。明日の朝は仕事がないので、今日はぐっすり眠れそうだ。

 

10月22日(土)

 昨晩は午前2時にホテルに戻り、メールをチェックしてから寝たのは午前3時くらい。でも今朝は7時にビシッと起床。朝食をあわてて取って、タクシーをつかまえ、アルファーマの泥棒市をのぞいてみた。ここで古いレコードが見つかるかもしれないという話を何人かから聞き、それじゃ行ってみようということになったわけだ。レコードがあると聞いたら、ワクワクして、つい早起きしてしまった。
 ただ、またまた天気は雨模様。おかげでぼくがいた午前中は、普段の半分くらいのお店しか出ていなかった。それでもいちおうレコードはあったが、ファドはかなり少なめ。SPは、あるにはあったが、あまり珍しいものはない。どうでもいい駄盤を10ユーロで売ろうとしていたお店があったので、ビックリしてしまった。
 結局収穫は、ディグノ・ガルシーア率いるオス・パラグァージョス(パラグァイ音楽ものです)の10インチと、ブラジルの歌手ブレカウチが歌う「マンボ・エン・サンバ」!!というSP。お目当てだったファドはカルロス・ラモスやマリア・ダ・フェのLPを見つけたくらいで、あまり満足できるものではなかった。ただ、こういう市は、1回行ったくらいでは、とんでもないものを見つけられるわけはない。雨が降っていなければ、もう少しお店が開いていただろう。今度は雨が少ない季節に来るしかない。
 ただ収穫こそ少なかったが、泥棒市そのものは、とても面白かった。売っているのは、どう見ても普通のポルトガル人ではない。ジプシーと思われる人たちもいるし、本当に泥棒みたいに人相の悪い人もいる。警察官たちが歩き回っているくらいだから、きっとトラブルも多いのだろう。これだけ人相の悪い人が集まる場所を、リスボンではじめて見た。しかも、そこが妙に居心地が良かったりするものだから不思議だ。またリスボンに来ることがあったら、是非また訪れてみたい。

 昼食をホテルの近くのバールで取って、午後は再びファド博物館へ。今日は朝からずっとアルファーマだ。もう一度訪れたのは、前回お金の持ち合わせがなかったせいで買えなかったCDを買いたいこともあったが、それ以上に飾られているポルトガル・ギターなどを、じっくり見ておきたかったからだ。なんでも、いまリスボンにはポルトガル・ギターの職人が3家族しかいなくて、だから本当に良いものを注文しようとしたら、1年以上待たされるらしい。だとしたら、きっとかなり高額になるに違いない。そんなものを作ってもらって眺める余裕はぼくにはない。だから、ここで歴史に残る逸品を見ておくしかない。
 フェルナンド・ジヴォンの家でもお父さんの遺品のポルトガル・ギターを見せてもらったときにも感じたが、名手が使いこんだ楽器には、ただ見ただけでも感じられる独特の味わいがあるものだ。ここに並べられたギターにも、同じような美しさを感じて、楽器だけで30分ほど時間をかけて、じっくりと眺めさせてもらった。

 今晩はリスボンのサッカー・チーム、ベンフィカが地元で試合をするそうで、乗ったタクシーの運転手たちはみんな盛り上がっていた。せっかくだから、ちょっとだけスタジアムを覗いてみようかと思ったが、でもやっぱりリスボン最後の夜は、サッカーではなく、ファドで締めくくるべきだと考え直した。そこで再びジョアナ・アメンドエイラが歌うクルーベ・デ・ファドに行って、はじめてお客さんとして食事をしながら、ファドを楽しませてもらうことにした。
 今日もお客さんのほとんどは観光客。外国人ばかりだ。それでも、ジョアナたちがマイクなしで歌うファドはジンと胸にしみる。そこで思い出してしまったのが、アマリアのカフェ・ルーゾでの名作ライヴ・アルバムだ。ファド・ハウスに外国人客が訪れるいまならともかく、リスボンでも一部のファド好きしかファド・ハウスに行くことがなかった1955年というあの時代に、誰が、どんな理由で、あんなライヴ・アルバムを録音しようと思いついたのだろう。マイクも使わない場所でのライヴ・アルバムなんて、世界中でもそうは作られたことがないに違いない。プロデュースした人は、この録音を誰に聞かせようと思ったのか?世界中でたくさんのファド・ファンが楽しむなんてことを、当時考えただろうか?そんなことを考えながら、リスボン最後の夜は過ぎていった。

 

10月21日(金)

 この時期のリスボンは雨が多い。そうは聞いていたが、せっかくの旅行中に一日中雨だとやっぱりガッカリしてしまう。昨日までに重要な打ち合わせはほとんど終わらせて、今日の昼間は街をじっくり歩こうと思っていたのだが、この雨じゃそれも無理。仕方ないからホテルにこもって、来週のウォーメックスのための準備仕事を進めることにした。

 そして夕方からは仕事を少し。まずはフェルナンド・ジローンという歌手/作曲家との打ち合わせだ。彼の家はホテルのすぐ近く。小雨の中を走って向かうことにした。
 あれはリスボンに着いた日のこと、ルイ・モッタさんに連れられて中心街シアードのCDショップで買い物をしたとき、偶然知り合ったのがジローンの奥さんだった。その後本人から電話があって、リスボンにいる間に家に遊びに来ないかと誘われ、今日行くことになった。彼の目的はわかっている。ぼくがディストリビューターだと知って、自分の作品を売り込もうと思っているのだ。そういう人とは、どこの国でもできるだけ会わないようにしているのだが、今日はちょっと気が変わった。面倒だけど、会ってみることにした。
 というのもジローンは、なんとアマリア・ロドリゲスが最初にブラジルに行ったときに同行したポルトガル・ギターの名手フェルナンド・フレイタスの息子さん。なんでもフレイタスさんはブラジルを気に入って住み着いてしまい、バイーア出身の女性と結婚したのだそうだが、そこで生まれたのがジローンだった。お母さんはバイーア出身のブラジル人なのに、ファドの歌手になって、レコードも残している(伴奏はもちろんフレイタスさん)。ジローンも17歳くらいまでブラジルに育ったらしい。
 ポルトガル・ギターの超名手アルマンディーニョの弟子だったフレイタスさんの息子だから、ジローンもホンモノのファディスタだ。本格的なファドも作るし、歌うし、ポルトガル・ギターも演奏する。伝統的なファドを体の心まで体現している人だと言っていいだろう。でも、外国で生まれたせいか、伝統には全然とらわれない。というか、完全にスッとんでいる。ファドのアルバムを作ればまったく独自のものになるし、さらにジャズもやったり、ブラジル音楽もやったり、という感じだ。
 実際にお会いした本人も、音楽そのまんま。信じられないくらいハチャメチャな人だった。次々と自分の作品を聞かせたと思ったら、突然思い出したようにお母さんの古いレコードをかける。お父さんの写真や遺品のポルトガル・ギターを持ってくる。その話には、まったく脈絡がない。たぶん、音楽に興味がない普通の人が聞いたら、狂っていると思うかもしれない。
 そんな彼も、なぜか曲を書くと、信じられないくらいすばらしいメロディーと歌詞を紡ぎだす。そこが彼のホンモノたるゆえんだ。例えばジョアナ・アメンドエイラの最新ライヴに収録されている「ファドは感情の色」という作品がそれだが、ファドの伝統的な節を自然に残しながら、いわゆるポップス的(ポルトガル語ではバラーダ的)な曲を作れる人は、そうはたくさんいない。実は今日彼に会いに行ったのは、お父さんの話を聞きたかったこともあるけど、同時にそんな作曲家としての彼の仕事ぶりも知りたかったからだ。
 ぼくには、彼の作品にはブラジル音楽的な部分も混ざっているように感じられる。それが自然にファドになっているところが、彼の個性なのだろう。自然になっているものだから、どうしたらそうなるのかは、本人もわかっていない。いわゆる天才肌だ。でも、そんな人だけに、今後もきっともっとすばらしい作品を作って、ファドに貢献してくれるかもしれない。ひょっとして、今後ジローンとは、一緒に仕事をする機会があるかも、なんて気にも、少しだけなった。

 そんなジローンの住むアパートを訪れたときにハプニングがひとつ。というのも、そのアパートの建物の一階が、偶然にも古レコード屋さんだったのだ。ギローンや奥さんからはそのことを何も聞かされていなかったので、狂喜してしまった。もちろんファドのレコードも、少しではあるが、置いてある。ギローンを待たせるのは申し訳なかったが、レコードが目の前にあってそのまま帰るわけにはゆかない。そんな中で10枚ほどを選んで購入。見たことのないアマリアのLPも一枚買うことができたのが嬉しかった。

 そんなギローンの家を後にして、夜9時前に再びサン・ルイス市民劇場へ。今晩はここで『白髪はサウダーデ』というショウがあるというので、見せてもらうことにした。ルイ・モッタさんのHMムジカが制作で、出演はアルジェンティーナ・サントスやセレステ・ロドリゲス(アマリアの妹さん)など、ベテランが中心。でも伴奏を務めるのは3人とも若手音楽家で、ポルトガル・ギターは先に会った19歳の天才奏者リカルドくんだった。
 驚かされたのは、会場がほぼ満員だったこと。さすがにキッズはいないが、20代と思われるお客さんもけっこういた。そんな客席の雰囲気はとても温かく、さすがに観光客中心のファド・ハウスとはまったく違う。最後は何度もアンコールをせがんで、まったくリハーサルしていなかった曲まで歌わせてしまっていたのは面白かった。
 しかし、何よりも驚かされたのは、もう80歳になろうかというアルジェンティーナ・サントスをはじめ、ベテランたちの元気一杯の歌いぶりだ。アルジェンティーナさんは、ステージの階段を上るときとかはよろけるほどなのに、歌いはじめるとピンと背中を張って、すばらしい声を披露する。アマリアと同世代で、親しい友人だったそうだが、そんな世代の歌手のナマの歌声をタップリ楽しめたのは収穫だった。
 ちなみにアルジェンティーナさんの最新録音は、当社の取引先であるCNMから出ている。CNMからサンプルをもらったので、帰国したらじっくり聞かせてもらって、内容が良かったら皆さんにもご紹介することにしたい。

 そんなショウの後、ルイ・モッタさんと近くのバールでコーヒーを飲みながら少しだけファド談義。面白い話をいくつか聞かせてもらった。
 そのうちのひとつは、ブラジルの音楽評論家ジョゼー・ラモス・チニョローンの話。彼こそがファドはポルトガルでなくブラジルで生まれたという説を本に書いて発表し、物議をかもしたのだが(もう15年近くまえのこと)、そのときには当然のごとく、ポルトガルではかなりの批判を浴びた。でも、チニョローンはリスボンを訪れ、そんなポルトガルの評論家たちと真正面から議論をしたのだそうだ。
 というのも、チニョローンの本は、過去の文献を丹念に調べて書き上げた内容。けっして彼の意見を書いた本ではない。それを突き崩すには、チニョローンがやったのと同様に、文献を調べなおすしかない。そこでチニョローンが言ったのが、アタマで考えるより、まず先に調べなさい、という一言だった。ここで議論は終わってしまったらしい。
 ポルトガルに来て音楽関係の本をたくさん買ったが、それらを読みながら思ったのが、ディスコグラフィーや文献の紹介がないことだった。要するに、ブラジルの音楽研究家のように丹念に資料を調べたり、レコードを多く聞いたりするようなことが、こちらではあまり行われていないということを意味する。まず第一に、資料を集めるコレクターがいない(いたとしても、ブラジルより大幅に少ない)。ブラジル人であるチニョローン以上に文献を持っている研究家もいない。これではチニョローンにはかなわない。ファドの歴史の解明には、まだもう少し時間を必要としているようだ。

 それに関連して、ルイさんからもうひとつ、面白いことを聞いた。というのも、これまで最初のファドのレコードは1904年に録音されたとされており、昨年は録音100周年の記念行事も予定されていのだが、その直前になって1年前の1903年録音のファド・レコードの存在が発覚してしまい、記念行事がさびしいものになってしまったのだそうだ。たしかにCDショップをいくら探しても、録音100周年を記念するアルバムはひとつも出ていない。これはそのせいだったらしい。

 そんな調子でルイさんと雑談にふけった後、11時過ぎに再びジョアナ・アメンドエイラが歌うクルーベ・デ・ファドへ。今日はジョアナたちの歌を聞くためでなく、ゼー・フォンテス・ローシャさんに再びゆっくり音楽の話を聞かせてもらうのが目的だった。ただ行ってみたら、金曜日でお店は満員。ジョゼー・フォンテスさんも大忙しということで、なかなか時間を取ってもらえず、途中で諦めることになってしまった。仕方ないから、ジョアナのお母さんをつかまえて、ジョアナの子供時代の話などを聞かせてもらい、さらにジョアナと少し打ち合わせ。でも帰り際に、ジョアナから(レコード店では絶対に見つけられない)デビュー・アルバムとセカンド・アルバムをプレゼントしてもらったから、とりあえず満足だ。ファースト・アルバムのジャケットに映るジョアナ(当時15歳)は、ほんとうに可愛らしい。当時どんな歌を聞かせてくれていたのか、日本に帰ってからCDを聞くのが楽しみだ。

 

10月20日(木)

 朝5時に起床。今日は午前中に打ち合わせの予定がないので、ゆっくり7時頃まで寝ているつもりだったが、目が覚めてしまった。まだ時差ぼけなのだろう。でも、起きてしまったら、何もしないのでは時間がもったいない。かと言って、外はまだ暗い。仕方ないから、パソコンを開けて仕事をすることにした。
 まず手をつけたのが、たまっていた日記。これを書き上げて日本に送り、続いてメールのチェック。そしたらビックリ。さすがにウォーメックスが来週に近づいているからか、売り込みのメールが知らないうちにたくさん入っていた。聞いたことのないレーベルから届いたメールは、今日だけで10件。昨日の分も合わせると20件以上になる。すでに会うことが決まっているレーベルだけで日程表の8割がたが埋まっているので、さらにもう20件なんて、とても全部会うわけにはゆかない。スタンドを出している会社なら、時間が余ったときに会いに行くことができるが、そうでない会社と予定を組むのはもう無理と判断し、申し訳ないけど、ミーティングは丁重にお断りすることにした。
 そんな返事を書いているだけで、かかった時間は1時間以上。今回の旅ではできるだけパソコンに向かわないつもりでいたが、これじゃ日本にいるときと同じだ。

 一仕事終えてから朝ご飯。朝から電話が鳴るので、朝食はできるだけホテルで取ることに決めたのだが、そこで気に入ったのが朝食に出るポルトガルのパンだ。ブラジルのそれとはずいぶん違って、歯ごたえのドッシリ。食べ応えがある。朝食だけでなく、お昼や夕食を食べるレストランでも、まず最初にこれがチーズとかと一緒に出てくる(もちろんタダではなく、食べたら後でしっかりチャージされる)。そのまま食べても美味しいし、チーズと一緒にワインを飲みながら食べるとコタエられない。日本にいるときにはほぼ完璧なライス・イーター(なんて英語があるのかどうか知らないが)であるぼくも、すっかりこれに馴染んでしまった。

 朝、日記を送ってから思い出したことがひとつ。昨日ファド博物館の近くで昼食を取ったのだが、そんなアルファーマのレストランの女主人さんはタイヘンなファド好き。お店でもファドのCDをずっとかけていた。そこでCD棚を見せてもらって気がついたのが、なんとアマリアのCDが一枚もなかったことだ。CDの合計所有数は100枚以上。そのすべてがファド。なのにアマリアのアルバムが一枚もないなんて、ビックリするしかない。
 そんな店でかかっていたのは、ルシーリア・ド・カルモやエルミーニア・シルヴァといった女性歌手のもので、女主人さんに訪ねたら、エルミーニアが一番好きな歌手なのだそうだ。
 彼女は別にアマリアを嫌っているわけではない。きっとLPではたくさん持っているのかもしれない。でも、地元のファンはさすがに趣味がシブいというか、良く知っているというか、とにかくぼくらと違うのは間違いない。そして確かに、そんなアルファーマの町並みの中でファドを聞いていると、エルミーニアの歌声のほうがアマリアよりマッチするような気がしてくる。きっとぼくがもっと若かったら、こんなお店の女主人さんに感化されて、アマリアしか知らないファド・ファンなんてニセモノだ、くらいのことをどこかで書きたくなったかもしれない。それくらい、この女主人さんのファドに対する愛情は深いものが感じられた。

 午前11時に書きもの仕事が終了。今日の打ち合わせは午後からで、少し時間がある。昨晩から降り続いていた雨もやんだようなので、ホテルの周辺を散歩することにした。
 ぼくが泊まっているリベルダーデ通りのホテルから市街地に下る途中で、左に少し入ったところにモウラリアという地区がある。アマリアの「ああ、モウラリア」をはじめ、ファドの歌詞によく出てくる地名だ。ここならホテルからはそれほど遠くないので、まずはここまで足を伸ばしてみることにした。
 モウラリアは丘になっていて、途中からはかなり急な坂道を登らないといけない。これがけっこうタイヘンで、市電に乗る人が多いのもわかる。リオ・デ・ジャネイロでいうと、サンタ・テレーザみたいな感じだろうか。古い家が立ち並ぶところも、サンタ・テレーザと同じ。ただし、こちらの方は古さがハンパではない。本当に歴史を感じさせる町並みだ。
 丘なんて書くと、ブラジル音楽ファンならリオのマンゲイラの丘とかを思い出されるかもしれないが、モウラリアはマンゲイラの丘なんかとは全然違う。ファヴェーラというのは20世紀に入ってから出来たもので、しかもいまのように拡大したのは戦後になってからのことだ。少しも古いものではない。モウラリアは、もっともっと古い歴史を持った町だ。だからファドととてもマッチする。

 そんなリスボンには、いまは黒人も多い。今日町を歩きながら、思った以上に多く感じられた。彼らはもちろんアフリカからやってきた人たちとその子孫だ。なんでもサラザールの独裁政権下では、アンゴーラやカーボ・ヴェルデなどの旧植民地からの移民はほとんどいなかったようだが、74年のいわゆるカーネーション革命以後、飛躍的に増えたらしい。そんなリスボン在住のアンゴーラ出身者たちの音楽は、当社でも配給しているが、町を歩く黒人たちの多さを考えれば、そういう音楽があるのは少しも不思議ではない。
 もちろん移民してもう30年もの歴史があるわけだから、彼らはリスボンに溶け込んでいる。黒人ばかりで固まっているという感じではあまりなく、特に若い世代になると、白人と黒人が連れ添って歩いている姿を市街地ではよく見かける。

 それともうひとつ、今日になって急に気になりはじめたのが、ポルトガルではタバコを吸う人がすごく多いということだ。思い出してみれば、着いてから食事したレストランに禁煙席なんてものが存在するところはひとつもなく、どこにでも灰皿がおいてある。しゃれたショッピング・センターの中にあるカフェでも平気でタバコを吸っている人を見て、ビックリしてしまった。
 ヨーロッパやアメリカだけでなく、ブラジルでも最近では禁煙席のあるレストランは多い。オープン・エアのところならともかく、冷房をかけるところはだいたい禁煙だ。そういう意味ではポルトガルのほうが断然遅れている。

 ブラジルと比べて気がついたことがもうひとつ。夜の街を歩いていても、アルコールを飲んでベロンベロンに酔っ払っている人を、リスボンではほとんど見かけないことだ。大声で話している人もいない。ポルトガル人はブラジル人と比べて、圧倒的に静かだ。そして、これは予想していたことだが、全然陽気じゃない。
 こんなポルトガル人たちを見ていて思うのが、ひょっとして世間では陽気だと思われているブラジル人も、実はこんなポルトガルの伝統をいまも受け継いでいるのではないだろうか、ということだ。ブラジルにおいて陽気な国民性なんてものが生まれたのは、実はここ100年ちょっとのこと。後から移民してきたイタリア人あたりが持ち込んだものだという話を、ブラジルで聞いたことがあった。それと、奴隷から解放された黒人たちのパワーが重なり合って、ブラジルの陽気な国民性が生まれたという説だ。でも、逆に言えば、それ以前のブラジル人は、ポルトガル人と同様、全然陽気じゃなかったということになる。そう考えれば、ショーロのような音楽が存在する理由もわかるし、サンバでたくさんの悲しい恋の歌が存在するのもわかる。ポルトガルに来てから、サンバとファドが、基本的にはとても良く似た音楽に思えてきた。

 午後は打ち合わせが2本。取引先のCNMと、ジョアナ・アメンドエイラが所属するHMムジカの両社と、今後のプロモーションなどの予定について話し合った。内容は社外秘事項ばかりで、ここで書ける話は少ない。ただ、両者ともジョアナのことは大切にしているようで、今後もよりすばらしいアルバムが作られることになりそうだ。

 夜は、そのジョアナが週に5日出演するファド・ハウス、クルーベ・デ・ファドを訪ねてみた。ジョアナだけでなく、ジョアナの最新ライヴ・アルバムに客演していたポルトガル・ギターのベテラン、ジョゼー・フォンテス・ローニャも出演するというので、ファドの昔話を聞いてみようと思ったからだ。会場にはジョアナの両親も来ていて、ご挨拶することもできた。
 ファド・ハウスというのは、ファドを聞かせるレストランのことで、1930年代あたりに登場したらしい。それまでストリートのアマチュア音楽家だったファドの歌手やミュージシャンたちは、ファド・ハウスのおかげで音楽をすることで生活できるようになった。ファドがディープな音楽性を持つようになったのが、こういったファド・ハウスのおかげであることは間違いないだろう。この点では、ファド・ハウスはサンバでいうところのエスコーラ・ジ・サンバの役割を果たしてきたと言えそうだ。
 ただし、いまのファド・ハウスは、基本的に観光客相手。それも外国人のお客さんがものすごく多い。この点も、カーニヴァルの桟敷席が観光客だらけなのと良く似ている。30年代には4〜5件しかなかったファド・ハウスが、いまでは40件近くあるのだそうで、それだけ観光化が進んでいるということだろう。
 ただ、ジョアナによると、それでもファド・ハウスは、ファド歌手たちにとって、とても重要な鍛錬の場なのだそうだ。ほとんどが外国人観光客と言っても、中にはツウなお客さんもいる。共演する音楽家には、ジョゼー・フォンテス・ローシャさんのようなベテランもいる。ジョアナはこのファド・ハウスで18歳の頃から5年も歌っている(しかも週に5日も!)そうだが、そこで学んだものはとても大きいのだそうだ。
 ファド・ハウスはいまだにマイクというものを使わない。基本的にいまもアマリアのカフェ・ルーゾでのライヴ・アルバムと同じだ。だから、ファド・ハウスで歌うファド歌手は絶対にクルーナー・スタイルにならない。普段は可愛らしい声で話すジョアナも、歌うときにはすばらしく大きな地声を楽しませる。ファドの伝統は、やっぱりファド・ハウスによって守られているということのようだ。

 そんなファド・ハウスが閉まるのは、午前2時頃。でも、早起きしたせいか、12時過ぎには強烈な睡魔が襲ってきた。ジョアナたちには、また明日か明後日に訪れることを約束して、今日は早く帰らせてもらうことに。この時間に眠たくなるということは、時差ぼけもそろそろ治ってきたようだ。

 

10月19日(水)

 昨日寝たのは午前3時半。でも今日は午前7時半には目が覚めてしまった。まだまだ時差ボケ状態なのだろう。そして朝食を取った後、昨日も会ったルイ・モッタさんがホテルを訪ねてくれたので、また一緒に外出することに。今日連れて行ってもらったのは、<地球の歩き方>などでも紹介されている<ファドとポルトガル・ギター博物館>だ。アマリアのアルバムのタイトルにもなっていた旧市街アルファーマにある。
 あまり期待していなかったせいもあるのだろうが、この博物館にビックリさせられた。これまであちこちの国で音楽博物館なるものを見てきたが、その中でもこのファド博物館は、最高じゃないかと思う。
 特別豪華な建物じゃないし、スペースもさほど広くない。1時間もあれば、十分に全部見れてしまうだろう。でも、その中で、ファドという音楽の成り立ちや歴史、その歴代の歌手や音楽家たちなどを、ファドのことなんて知らない素人の観光客にもわかるくらい丁寧かつコンパクトに紹介している。SPやLPも飾ってあるし、ポルトガル・ギターのヴィンテージものも見れる。さらにアマリアの初期映画やノローニャの貴重な映像まで楽しめてしまうのだから、ファンにとっては嬉しいことこの上ない。
 さらに嬉しかったのが、博物館の入り口の脇にあるお店の品揃えがすばらしく充実していたことだ。ファドのCDに関しては、いまポルトガルで入手できるもののほとんどがここで揃えられる(よほどマイナーなレーベルのものを除いて)と言っていいと思う。ポルトガル・ギターももちろん売っているし、本もすばらしく充実している。たぶん、ここに来てたくさん買い物をしようとする気になれないファド・ファンなんて、まずいないだろう。ぼくはCDを15枚ほどと、本を数冊、そしてノローニャの貴重なDVDを購入した。アルフレッド・マンサネーロの伝記本なんて、ちょっと立ち読みしたけど、けっこう面白そうな内容だ。
 全部見終わった後に、館長さんと面会。博物館があまりにすばらしくて興奮していたのか、SPのコーナーにアマリアのブラジルにおける初録音がなかったので、ぼくがブラジルで入手したSPのうちの一枚を進呈すると約束してしまった。

 博物館の後は、通りを渡って中に入ったところにあるレストランで食事。日本人観光客のツアーと出くわしたが、すばらしく下町風情溢れるレストランで、ぼくも十分楽しめた。

 ホテルに帰って少し休息。夕方には再び市街地(シアード)に繰り出して、取引先であるCNMのCDショップに行くことにした。ここで昨日会ったジョアナ・アメンドエイラやエルデルくんと合流。いつもメールでやり取りしているCNMの輸出担当のヌノくんもやってきて、近くのコーヒー・ショップでミーティングだ。話題はひとつ。ジョアナを日本で今後どう売り出してゆくかということだが、ここから先は企業秘密も多いので、その内容まではここで書くわけにはゆかない。
 ジョアナとは、明日彼女が歌うファド・ハウスでまた会うことを約束。そのときに少しインタビューをさせてもらうことにした。もしもこれまでCD解説に書いてきた以外のことを知ることができたら、この日記で少し紹介されてもらうことにしよう。

 夜は近くのバールでワインを飲みながら、軽く夕食。さすがに疲れが出てきたので、夜は早く休むことにした。明日も朝から忙しそうなので、いまのうちに休んでおかないと。

 

10月18日(火)

 朝4時過ぎにパリに到着。それから飛行機を乗り換えて、リスボン到着は9時過ぎだった。
 ここでトラブルが発生。なんと、成田で預けた荷物が届かなかった。さっそくエール・フランスに問い合わせてみると、早朝の乗換えだったせいか、荷物だけパリに残されてしまったのだとか。次の便でやってくるから、着いたらすぐにホテルにお届けします、とのことだったので、とりあえずホテルにチェックインすることにした。
 しかし、当初の予定では遅くとも4時半か5時までには届けるという約束だったのに、全然送られてこないので、6時過ぎに電話で確認したら、まだ荷物はリスボンに着いていないとか。それから電話で催促すること10回以上。空港に荷物の到着が確認されたのは、やっと7時過ぎになってからだった。しかも、このときのエール・フランスの対応が最悪。自分たちが悪いのに、これから持って行ってやるという口ぶりで、ビックリさせられた。最初はホテルの人にお願いして電話してもらったのだが、途中からラチがあかないと思って自分で電話。そしたら相手方の電話の応対をしている人間(ポルトガル語の発音からしてブラジル出身のようだ)の口ぶりがあまりに横柄だったので、アタマに来て、ドナリつけてしまった。目の前で会話を聞いていたホテルのレセプションの人たちは、きっとぼくの剣幕にビックリしただろう。ブラジルのリオ訛りのポルトガル語を話す日本人が大声でまくし立てるところなんて、きっとはじめて見たに違いない。
 結局、荷物が到着したのは、夜の9時40分過ぎ。おかげですっかり予定が狂わされてしまったが、(一緒にエール・フランスと闘った?)ホテルのレセプションの人たちとはすっかり仲良くなることができたのは良かった。

 とは言っても、ずっとホテルで荷物を待っていたわけではない。HMムジカというプロモート会社のルイ・モッタさんがホテルに訪ねてきて、少し打ち合わせ。さらに、ぼくのレコード探しを付き合ってくれるというので、さっそく一緒に旧市街に繰り出すことになった。天気もすばらしい秋晴れだし、最高の散歩日和だ。ホテルはリベルダーデ通りに予約してもらったのだが、中心地のバイショ・シアードまで、地下鉄2駅分を、彼と一緒に歩いてゆくことにした。
 リスボンの町並みは、あたりまえだが、ブラジルのそれと良く似ている。坂道が多いところは、バイーア(サルヴァドール市)みたいだ。天気が良いと、この時期でもリスボンはけっこう暖かい。すっかり汗をかいてしまった。

 今日訪れたのは、市街地のCDショップ。1件だけLPを置いているところがあったが、たいしたものは見つけられなかった。それでも購入したCDは30枚以上。おまけにファド関係の本も何冊か買って、大満足だ。なにより、マリア・テレーザ・ダ・ノローニャの持っていなかったアルバムを2枚ほど買えたのが嬉しかった。

 昼はホテルの近くのレストランで食事。ブラジルで言うところのボチキンのようなところ(こちらではバールと言う)で食べたのだが、ブラジルでもポルトガル料理はよく食べに行ったので、食事はまったく問題がない。ただ残念だったのが、楽しみにしていたイワシを食べられなかったこと。あるにはあるのだが、この魚は夏までが旬で、この時期はもうあまり美味しくないというので諦めた。イワシを食べたい人は、春から夏にかけて来たほうが良いようだ。

 夜は、9時40分までエール・フランスと格闘した後、届いた荷物からスーツとネクタイを取り出して、慌てて着替え。タクシーを拾って、サン・ルイス市民劇場に向かった。そう、当社で配給しているジョアナ・アメンドエイラの新作ライヴが録音された由緒ある劇場だ。今日はここでアマリア・ロドリゲス杯の授賞式があると聞いたのだが、出席するには背広とネクタイが必要ということで、荷物の到着を待っていたのだった。
 少し遅刻してしまったので、授賞式はすべて見れなかったが、どうもファド関係者のほとんどが集まっていたようだ。というのも、これが最初のアマリア・ロドリゲス杯の催しだったらしく、アマリア・ロドリゲス財団の人と思われる司会者は、しきりにこういう催しを持てたことを感謝すると言っていた。
 そしてセレモニーが終わったら、その後はコンサートだ。ぼくが楽しみにしていたのは、もちろんこちら。はじまったのは10時半くらいだろうか。これが信じられないくらい豪華な内容だったことに、ビックリしてしまった。
 登場した歌手は全部で10人以上。若手のジョアナ・アメンドエイラから、アマリアの親しい友人だったというアルジェンティーナ・サントス(もう80歳!)まで、ほぼ年齢順にステージに登場し、それぞれが2曲ずつ歌うという構成だ。さらに伴奏ギタリストも5人(もちろんそれぞれが自身のグループを連れてきている)!ジョゼー・フォンテス・ローシャやカルロス・ゴンサルヴェスのようなベテランから、19歳の天才新人リカルドくん(これがすばらしく上手い)まで、歌手たちの伴奏をしながら、それぞれソロのインスト演奏も楽しませてくれるから、嬉しくなってしまう。さらに最後には、50人のフル・オーケストラまで登場して、またまたビックリ。アマリアを追悼する曲を豪華に演奏していた。すべての公演が終わったのは、もう午前1時過ぎだっただろうか。3時間近いコンサートだ。いきなりこんなスゴいものを見てしまって良いのだろうかというくらい驚かされた一夜だった。

 終演後、楽屋にジョアナ・アメンドエイラを訪ね、さらに男性歌手エルデル・モイーニョくんらと一緒に夕食を食べに行くことに。ジョアナは、少し髪を切ったせいか、これまで映像などで見たよりも、ずっと幼く見える。女子大生といわれても通りそうなくらいだ。せっかくリスボンで会えたのだから、彼女が歌うカーザ・ド・ファド(ファド・ハウス)にお邪魔して、もう一度歌を楽しませてもらうことを約束した。
 そしてエルデルくんやジョアナちゃんと、ワインをたらふく飲み、牛肉料理をご馳走してもらって(どうも支払いは主催者持ちだったようだ)、帰宅したのは午前3時。荷物の紛失にはじまったこの日は、本当に長い一日だった。

 

10月17日(月)

 旅行の当日はいつも慌しい。朝早く起きて、自宅で資料整理などを少し。それから会社で、旅行中の仕事に関しての打ち合わせ。さらに弁護士さんや税理士さんと打ち合わせを済ませて、夕方に空港に向かった。

 今日の便はエール・フランス。出発は10時近い、遅い便だ。たしか2年前にスペインに行ったときにもこれに乗った記憶があるが、乗ってから思い出したのが、この飛行機の座席の狭さだ。前回は辟易させられた。なんせ13時間の長旅。それをこんな狭い座席で過ごせというのかという感じだ。
 とかなんとか言いながらも、きっと出発前の仕事で疲れていたのだろう。夕食をすませたら、もう熟睡モード。さあ寝るぞと目をつぶり、それから9時間くらいは完全に寝ていたようだから、われながら呆れてしまう。起きたら、もうパリまで1時間というところ。隣に座ったご夫婦から、うらやましいくらい良く寝ていましたよと言われて、ちょっと恥ずかしい気分になった。
 そう言われてみれば、ぼくはこれまで飛行機に乗って映画なんてまるで見たことがない。いつもこうしてすぐに寝てしまう。

 

10月16日(日)

 旅行のために買い物を少し。何よりも必要だったのが旅行カバンで、まずはそれを物色した。そして着るものも少し購入。リスボンはともかく、パリやニューキャッスルはきっと寒いに違いない。荷物が増えるのはイヤなので、いつもはTシャツなどを現地調達するのだが、今回はそういうわけにもゆかないだろう。

 まだまだやり残した仕事は多いが、これ以上荷物を増やしたくないので、旅行中にそれらをやることは諦めた。これまでは解説原稿を旅行先のホテルで早朝に書くことがしょっちゅう。まるで仕事をしなかった旅行なんて、思い出せないくらいだ。でも、今回はそれもなし。営業仕事に集中することに決めた。

 

10月15日(土)

 月曜日から海外出張。今日はその準備に追われた。準備と言っても、スーツケースに持ってゆくものを詰めるなんて作業をするのは、いつも旅行直前。今日やったのは、仕事の打ち合わせの日程調整や、そのための資料整理だ。今回はリスボンからパリ、さらにロンドンにニューキャッスルと回るので、行く前にある程度予定を決めておかないと、タイヘンなことになる。観光旅行ならこんなに神経質になる必要はないのだろうけど、仕事となるとそうもゆかない。

 今回のように移動の多い旅行だと、本を読む時間がたくさん取れそうなので、はじめて行くポルトガル関係の本も少し取り出してみた。持っているだけでちゃんと読んでない本もあるので、この機会に読んでおくのもいいだろう。夕方には本屋さんに行って、他にもなにかないかと調べてみたが、あまり面白そうなものは見つからなかった。まあ、どうせ現地で本屋さんに行くだろうから、まあこれくらいで十分だ。

 

10月14日(金)

 金曜恒例の雑務仕事。しかも旅行前だから、来週回しというわけにはゆかない。自宅と事務所で絶対にやっておかないといけない仕事を終らせる。不在中の外国への注文の予定もすべて決めて、これでいちおうなんとかなりそうだ。

 夜遅く自宅に戻って、食事を作りながら、今週入荷したシティ・ヌールハリザのVCDを見る。シティのライヴVCDはこれまでも何本かあったが、なんと今度はロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ・レコーディングだ。シティは、日本よりさきにイギリスで単独コンサートを開いていたのだ。
 内容は、ハッキリ言ってこれまでで最高。シティのファンなら、絶対に楽しんでもらえそうな作りだ。日本では取り扱いのないVCDなので、ライスから大々的に発売というわけにはゆかないのが残念だが、シティを押してくださっている一部のお店には近いうちに並ぶことになると思う。VCDはDVDプレイヤーでもちゃんと見れる(ちょっと画質は落ちるけど)ので、ファンの皆さんは楽しみにしていてください。

 

10月13日(木)

 午前中にやっと大きな解説原稿が1本仕上がる。普段の倍の分量を書いたので、時間がかかってしまった。でも、なんとか書き終えられて、やっと少しだけ安心。

 ウォーメックスが近づいたこともあって、外国からのメールはいつも以上に多いが、その中で気になったことがひとつ。当社で来月スアド・マシの新作を発売するのだが、このアルバムはフランスでもユニバーサルから発売されるのだそうだ。
 そこで思い出したのが、スアド・マシの前作で起きた問題だ。というのも、フランスのユニバーサルは、このアルバムのフランスにおける発売権しか持っていない。だから本来、輸出してはいけないのだが、でも現実には日本にもたくさん入ってきていたのだ。もちろん輸出したのはフランス・ユニバーサル自身。しかも輸入したのが日本のユニバーサルの系列会社だと知って、ぼくは非常に困惑してしまった。
 当社はイギリスのラスという会社から日本配給を任されているのだが、そのラスは、ぼくらのために日本における配給の権利をちゃんと取得してくれている(もちろんタダで取得できるわけはなく、お金を払っている)。要するに、日本において発売権を持つのは、あくまで当社であって、フランスのユニバーサルは日本には輸出することができない。それを輸入したユニバーサルの子会社は、並行輸入をしていたことになってしまう。そう、メジャー会社たちでしちゃいけないよと決めた並行輸入禁止の決まりを、自分たちで破っていたのだ。
 今回はラスにお願いして、フランスのユニバーサルから日本に輸出されないよう、強く言ってもらうことにした。権利関係のついても、すでにフランスや日本のユニバーサルに確認してもらっているはずだ。それでも万が一、並行輸入が引き続き行われるようなら、問題は深刻化する。日本における並行輸入に関する決まりウンヌンを超えて、もう国際問題だ。
 お店のバイヤーの方々にも、お願いしたい。メジャー会社の並行輸入に関しては、けっして協力しないように、と。自分から言い出した決まりだから、言い出した本人くらいは守らないと意味がない。どうぞ、よろしくお願いします。

 

10月12日(水)

 終日、解説原稿の執筆。やっとこれだけに集中できる時間を作ることができた。ひたすら調べものをして、ひたすら書きまくる一日。

 

10月11日(火)

 今日も原稿書きに集中したかったが、今月は予想外の出費があることが急にわかって、慌てて金策に走り回ることに。なんとか銀行が閉まる3時までには送金をすませたが、終わったらドッと疲れてしまった。

 

10月10日(月)

 せっかくの体育の日が雨というのもかわいそうだけど、仕事をするには雨のほうが静かでいい。祭日なので電話もないし、メールも少ないし…。まさに原稿書き日和だ。というわけで、今日は日記なんて書いているときじゃない。頑張って、原稿終わらせないと…。

 

10月9日(日)

 スブラクシュミの資料がやっと揃う。ただ、これだけではなく、他にも書かなきゃいけない解説原稿も多いのだが、それ以上に旅行前に整理しとかないといけない雑用仕事もたまっている。そこで、今日はそんな雑用仕事を一気に片付けることにした。こういう細かい雑用が目の前にたまっていると、ぼくはどうしても本格的な仕事に集中できない。

 パキスタンで大地震があったことを新聞で知る。先のニューオーリンズの水害といい、昨年末のインド洋の津波といい、今回も地球が何かに怒っているとしか思えないような大災害だったようだ。亡くなった方もかなりの数にのぼるらしい。まったく悲しいとしか言いようがない。
 こんなとき誰でも考えるのが、イラクやアフガニスタンに滞在している米軍をいますぐパキスタンに送って救助活動をさせるべきだ、ということだろう。ブッシュにとっても、先のニューオーリンズでの失点を挽回する絶好の機会になる。なんなら、サモアにいる自衛隊をくっつけてもいい。とにかく早く現場に救助部隊を送って、被害を最小限に食い止めて欲しいと思う。

 

10月8日(土)

 朝早く起きて、事務所で経理仕事。そして10時から税理士さんと打ち合わせ。その後は、休日出勤してきた昌くんと昼飯を食べながら少し打ち合わせをした。そして午後は自宅でスブラクシュミの解説を書こうと思ったのだが、どうしても欲しかった資料が揃わないのと、朝早くからの経理仕事ですっかり疲れてしまったのもあって、中止にした。いつもそうだけど、お金の計算をした後は、疲れがヒドい。もっと儲かっていれば、こんなこともないのだろうけど…。

 そんなわけで、夜はゆっくりサッカーの日本代表の試合を観戦。テレビの前に釘付けになった。まずビックリしたのが、ラトビアで試合をしているのに夜7時の試合開始ということ。きっと現地ではお昼頃にはじまったということだろうけど、そんな時間にサッカーの試合をすることは、もちろんありえない。きっと日本のテレビ局の要請によるものだろう。ただ、そんな時間からでもラトビアのサポーターはたくさん会場に来てくれたみたいで、さすがにサッカー熱が高いことをうかがわせた。結果は2対2の引き分け。日本代表のファンは怒っているかもしれないないけど、ぼくは良い試合だったと思う。あんな熱心なお客さんが集まったアウェーの試合で楽勝なんかしちゃ、地元のサポーターに申し訳ない。

 

10月7日(金)

 朝の仕事を終らせてから、午後に打ち合わせを1本。それが終わったら、もう午後4時近くになってしまった。金曜日なので雑用仕事がたくさんたまっていたのだが、結局終わらせることができたのはほんの一部。週末に持ち越しになってしまった。

 今晩、渋谷で面白そうな催しをやっているようだが、とても行く元気がない。いつも、次回こそは、と思っているのだが…。

 

10月6日(木)

 今日はリスト作成日。今週のメインはシエラ・レオーネ出身のジェラルド・ピーノの復刻盤になった。あのフェラ・クティがまだハイライフ・ジャズをやっていた66年頃、ラゴスにやってきたピーノがいきなりジェイムス・ブラウン風の音楽をやっていて、フェラは大仰天。アフロ・ビートをやりはじめるキッカケになったという話は有名だ。その音が実際に聞けることになったのだから、アフロ・ビートのファンには貴重だろう。月末にはお店に並ぶはずなので、ファンの皆さんはお楽しみに。

 もうひとつ、今週のリストで重要なのが、テレサ・テンのライフ録音の後期のオリジナル・アルバムだ。今週は5枚紹介したが、ライフ時代ではもっとも良い時期のものだけに、どれもお勧め。アイドルから大人の歌手に向かおうという時代ならではのテレサの魅力が、どのアルバムでもたっぷり楽しめる。今週もまたテレサのCDを何度も聞き返してしまった。

 また、来週発売予定のM・S・スブラクシュミのアルバムも今週、無事入荷。今日から解説原稿に取り組むことになった。普段は専門でもないアフリカ音楽の解説も平気で書いているぼくだが、インド音楽に関してはさすがに専門外であることを意識してしまう。不特定多数の人たちに向けて作られたポピュラー音楽と、スブラクシュミのような古典音楽とでは、やっぱりどこか違うのだろうか。でも、ぼくは、インド音楽を専門的にはわからないが、ぼくなりにスブラクシュミの歌が好きだ。その部分をちゃんと書ければ良いのだが。

 ところで最近、夜によく聞いているのがザラの新作『ザマヌ・ゲルディ』 (ライス UMR-708)。今回も2枚組だが、1枚めが特にすばらしく、今晩も何度も聞き返してしまった。トルコの歌手は、だいたいどの人も濃いめというか、歌唱力をフルに発揮してしまう歌手が多いのだが、ザラはその中で珍しく繊細。でも、ぼくはそこが好きだ。カランから出ているゴリゴリ・コブシの新世代歌手たちより、ザラの軽やかな歌声のほうがちょうど良い、なんて思ってしまうぼくは、軟弱なのでしょうか。

 

10月5日(水)

 今日も早起き。ひと仕事を終らせてから、朝10時に事務所に行って、帳簿の整理や明日のリストの準備などを終わらせた。帳簿仕事は本来は金曜日にやるはずだったが、今週の金曜はちょうど連休前。他にやることが出てきそうなので、先に進めておくことにした次第。夕方帰宅したら、ヨーロッパからメールがたくさん入っていて、なんだかとても慌しい一日。

 

10月4日(火)

 予定通り、早起きして仕事をスタート。でも昨晩早く寝たから、爽快な目覚めだ。こうなるとやっぱり仕事もはかどる。お昼までに解説を1本仕上げて、午後には細かい書きもの仕事をたっぷり。取引先などにメールもいっぱい打ったけど、夕方6時には仕事を終えられた。夜はゆっくりCD鑑賞と読書。理想の一日でした。

 

10月3日(月)

 今日は海外送金の日。ただ週末に書類などを準備しておいたので、スムーズに済んだ。そこで午後からは自宅でひたすら書きもの仕事に集中。解説を1本仕上げて、メールをたくさん打って、なんとか予定した仕事を終了。朝7時から仕事をはじめて、夜の7時まで。それでもアッという間に時間が過ぎてしまったように感じたのは、仕事に集中できたからだろう。

 昨日、決心したことがひとつ。これからは、いくら忙しくても、夜の7時までに仕事をストップしようと思っている。外国からのメールは夜遅い時間にもどんどん入ってくるが、それにいちいち返事を書いていると、夜12時を平気で過ぎてしまう。そんな状態では朝すっきり目覚められないし、そうなると大事な朝の仕事が進まない。これが最近の悪循環だった。それを断ち切るには、夜はもうパソコンを開かないと決めるしかない。

 もうひとつ決めたのが、この秋はダイエットしようということ。中年太りは仕方ないと思っていたが、どうも最近は動きがニブくなったような気がする。それにおなかが出ているせいで女の子にモテなくなってしまうのも困る。だいたい夜遅くに食事を取ったりするものだから、おなかが出てしまうわけで、だとしたらさっさと仕事を切り上げて、早く食事を取るしかないのです。

 夜は好きなレコードでも聞いて、もっとたくさんの本を読みたい。最近そんなことを切実に感じているのは、9月があまりに慌しかったせいだからだろう。そんな規則正しい生活が実現できたら、今後のサンビーニャの発売タイトルにも影響を及ぼすかもしれない。

 

10月2日(日)

 昨日に続いて、今日も終日読書。結局、この2日間で読んだのは、以下の本だ。音楽ファンだったら当然読んでおくべき本ばかりなのに、これまで積んでおくだけだったなんて、恥ずかしい限り。どれが面白かったとかいう話は、いまさらここで書いても仕方ないので、書きません。

 『収集百珍』中村とうよう著
 『私の家は山の向こう〜テレサ・テン十年目の真実』有田芳生著
 『細野晴臣インタビュー』細野晴臣 北中正和著
 『毎日ワールド・ミュージック』北中正和著
 『Jポップの心象風景』島賀陽弘道著
 『Jポップとは何か』島賀陽弘道著
 『サンバ』麻生雅人監修
 『ブラスの快楽』関口義人著

 ストーンズの新譜も悪くないけど、途中、とうようさんの本を読んで急に聞きたくなったパティ・ペイジや、北中さんの本を読みながら聞いた細野さんの3部作、関口さんの本を読んで思い出した19〜21ユニバーサル・バンドとかに耳を奪われてしまった。ユニバーサル・バンドは自分のプロデュースだが、ブラス・バンドのコンセプト・アルバムなんて、いまだに世界でも珍しいものだと知れたのが収穫。

 

10月1日(土)

 もう10月になってしまった。今年もあと3ヶ月。なんだか今年はいつも以上に早く過ぎてしまっているような気がする。
 理由はわかっている。時間を濃密にしてくれるような面白いアルバムになかなか出会えなかったからだ。これは当社発売モノも含めての話だが、今年はこれまでガツンと来るような新作に出会えなかった。そこそこのアルバムはいつくかあるけど、喜びが持続しないというか…。結局、気に入って何度も聞き込んだのは、古い録音ばかりだったりして…。
 こんな状況を打破しないといけないのが、ぼくらの仕事。なんとか面白いものを探し出さないといけない。

 そんなわけで、今年もウォーメックスに行くのだが、そのために今月は月の後半が海外の予定。その直前は休みなんて取れそうもないので、この週末は仕事から離れて、できるだけ自由な時間を作ることにした。そこで何をしようかと思ったかというと、読書だ。日常的にいろんな本を買って読んでいるけど、ここのところ音楽関係の本は(仕事で読む洋書などを除いて)意識して遠ざけていた。自分の時間まで音楽のことを考えたくなかったからだ。でも、読まないままになってしまっている本には、わざわざ送っていただいたものもある。いつまでも積んでおくだけの状態では申し訳ないから、これを機会に全部読んでしまおうと考えたわけです。
 ちょうど手元には昨日買ってきたストーンズの新作がある。読書のBGM向けのアルバムかどうかはわからないが、少なくともワールドものより、自分の仕事と関わりがない分だけ気軽に聞けるだろう。もしワールドもののサンプルなんて聞いてしまったら、仕事を思い出して、ゆっくり本なんて読んでられないもので…。

 

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