3月31日(木)

 やっと時差ボケが治ってきたようだ。帰国してはじめて朝6時まで普通に寝ることができた。なにしろ今日は一番忙しい支払日。体調が戻っていなかったら困ったことになったところだ。
 というわけで、朝から支払いの準備。そして午後は支払いの後、伝票のチェック。さらに午後遅い時間に打ち合わせを一本…。仕事らしい仕事はまったくできなかったが、思い切り疲れた1日だった。

 

3月30日(水)

 今日も4時半に目が覚めてしまった。でも、体調は少しだけ回復。解説原稿3本を午前中に書き上げることができた。午後は打ち合わせをひとつ。そして夜はサッカー。前のイランとの試合はちょうど飛行機に乗っているときだったので見れなかったが、今日はテレビで楽しめた。すぐ近くの埼玉スタジアムでの試合だから、本当ならナマで見たかったところだが。

 

3月29日(火)

 若い頃は時差ぼけなんて1日で治してしまったのだが、もうそうはいかない。昨日、昼間眠たいのをガマンして頑張って起きていたのに、結局夜は3時間しか眠れなかった。これじゃ、仕事にならない。

 午後、久しぶりに事務所に。経理書類の山にウンザリしたが、もう月末。経理仕事をしないといけない時期なので、ちゃんと片付けておかないといけない。また、ブラジルに行っている間にサンプル盤も数多く届いていたが、これらも早いとこチェックしないと。とにかく、やらないといけない仕事が山積み。外国での仕事から帰ると、いつもこんな感じだ。

 旅行中にブラジルのトラーマと正式に配給契約を結んだ。当社はこれまでもトラーマの作品は輸入していたが、これからはもっとスムーズに入荷することになるはずだ。さらに販売価格も下げられる。トラーマはいまのブラジルでもっとも意欲的な会社のひとつ。これからはより大事に、力を入れて配給してゆきたい。
 まずはその第1弾としてマックス・ジ・カストロの最新作が今週末に発売されます。どうぞ、よろしく。

 

3月28日(月)

 午前5時に寝たのに8時前には目が覚めてしまった。完全に時差ボケだ。これを治すには、ただひとつ、今日は昼間いくら眠たくなってもガマンして、ちゃんと夜に寝るようにするしかない。そんなわけで、今日は最低限の仕事をしながら、時差ボケと格闘する一日だった。

 今回のブラジル旅行中に一番聞いたのが、ファドのマリア・テレーザ・デ・ノローニャ。取引先にお願いして5枚のCDを送ってもらったのだが、それが旅行直前に届いたので、そのまま旅行中にウォークマンで聞いてみた。アマリア・ロドリゲスと同世代で、唯一のライヴァルと言われた女性歌手がノローニャだが、その歌声はさすがにスケールが大きい。どのCDも本当にすばらしい内容だ。近いうちにその真価を示すことができるCDを日本でも出さないといけないと思いはじめてしまった。

 そんなノローニャを聞きながら思い出したことがひとつ。それはリオで毎日使っていたタクシーのことだ。というのも、リオのタクシーの運転手の中で、ベテランの人のほとんどがポルトガル生まれで、その比率たるや、かなり大きいからだ。意外と知られていない話なので、ここで書いておくのもいいだろう。
 彼らから聞いた話によると、戦後から60年代前半くらいまでのポルトガルは経済状態が非常に悪く、多くの人々がブラジルに移民してきた。そんな人たちの多くは、まずリオにやってくる。リオがもともとポルトガル人の入植地だったからだ。そして彼らの多くは、手っ取り早く職につけるタクシーの運転手を選んだ。彼らによると、ポルトガル人たちが当時移民したのはブラジルだけではなく、当時はアフリカの旧ポルトガル植民地に移民した人たちもたくさんいたのだそうだ。そしてなぜか、どこに言ってもタクシーの運転手をやっている人が多いのだと言う。
 旧宗主国への移民が多いのは、誰でも知っている。フランスあたりに渡るアフリカの人たちは本当に多い。パリに大きなアフリカ人コミュニティがあるくらいだ。でも反対に、旧宗主国から旧植民地に移民するなんて、誰も聞いたことがないのではないか。そんな逆の現象が起きたのは、たぶんヨーロッパでもきっとポルトガルくらいじゃないかと思う。
 それくらい、当時のポルトガルは貧しかった。その点は同時代のアイルランドあたりと匹敵するかもしれない。
 いまになってポルトガルにファド・リヴァイヴァルなんて現象が巻き起こっているのは、きっとそのせいなのだろうと思う。アマリアのように外国のマーケットで活躍できた人はともかく、国内ではその頃経済状態が悪くて、音楽どころじゃなかった。そしてそんな経済状態を持ちなおした頃から、やっと新しい世代が登場するようになってきた。そんな状況を考えると、いまポルトガルから登場している新世代たちは、アイルランドのアルタンなどに匹敵するのではないかと思う。
 しかし、そんな経済状態がヒドい時代に国内で活動していたと思われるノローニャは、どうしてこんなにすばらしい歌声を持つことができたのだろうか。考えてみれば、アマリアのことを別にすると、ぼくらはファドの現代史をほとんど知らない。やはり近いうちにポルトガルを訪れて、一度しっかり調査しないといけないようだ。

 

3月27日(日)

 午後2時半に無事成田に到着。夕方には自宅に戻って、荷を解いた。

 さすがに疲れて料理を作る気になれないので、夕食は近くのお蕎麦屋さんへ。別に日本食が恋しくなったわけではないが、やはり日本の気候には日本の料理が一番しっくり合うようだ。そういえば、昨日まで食べていた料理は、ブラジルでは美味しかったが、日本でわざわざ食べようと思ったことはこれまで一度もない(逆にブラジルで日本料理を食べたいと思ったことも一度もない)。食べ物の趣向を一日でコロッと変えられるなんて、人間はつくづく順応性の高い動物だと思う。

 すごく疲れているのに、なかなか眠れない。日本に帰ってきた日はいつもそうだ。こんなときに無理して寝ようと思ってもうまくいったためしがない。できるだけリラックスして、自然に眠たくなるのを待つしかないというのが、ぼくの経験則だ。そんなわけで、夜はブラジルでもらったサンプル盤を聞きながら、ノンビリ過ごした。気がついたら、もう午前5時。さすがに睡魔が襲ってきた。さあ、ゆっくり休むことにしよう。

 

3月26日(土)

 来たときと同じく、マイアミとダラスを経由して東京へ。ダラスと成田の間はなんと12時間半もの長旅だ。いつもながら、本当に疲れる。

 

3月25日(金)

 今日はブラジルでは祭日。肉に感謝するあの日だ。だから、今日は肉料理を食べてはいけない。ヘソ曲がりのぼくは、こんな日こそシュラスカリア(ブラジルの焼肉屋さん)でお腹いっぱい肉を食べてやろうかと思ったが、さすがにどこも閉まっているので諦めた。
 そんなわけで、今日のお昼はお魚料理。ベト・カゼスくんが魚をたくさん買い込んで料理を作るというので、ご馳走になることにした。エンリッキ・カゼスくんの夫婦やギタリストのゼー・パウロ・ベケルくんたちも同席して、とりあえずのお疲れさんパーティだ。
 そんな中で話題の中心になったのは、先に試写会を見せてもらったショーロの映画『ブラジレイリーニョ』。ゼー・パウロくんは、単に出演しているだけでなく、制作にも関わっているので、いろいろ裏話を聞くことができた。なんでもこの映画、日本の配給先が決まったとかで、近いうちに上映されることになったらしい。とりあえず嬉しい話だ。

 思い出してみれば、ぼくがベトやエンリッキと知り合って、もう20年。あの年に生まれたベトくんの長男は、もう立派な成人になってしまったから、月日がたつのは早いものだ。そして来年は、一緒にレコードを作るようになっての20周年になる。そこで来年は、リオのどこかで、盛大な20周年パーティをやろうという話になった。もしも実現すれば、楽しいことになるだろう。幸い、ぼくが作った作品でいまブラジルで廃盤になっているタイトルも、あるレコード会社がまとめて再発売してくれることにほぼ決まった。いまから来年の話をしてると鬼に笑われそうだが、こういう話は早く決めておいたほうがいい。さっそくそのレコード会社にパーティのこともメールで知らせておくことにしよう。

 ベトくんの家でシャワーを浴びさせてもらって、夕方には空港に。ベトやエンリッキたちは完全に酔っ払ってしまったので、ムジカゼスのマルコスくんが空港に送ってくれた。さあ、これからまた27時間の長旅だ。

 

3月24日(木)

 今日も朝からレコーディング。明日が祭日なので、今日が録音の最終日になってしまった。

 明日が祭日ということは、両替所もお休み。今日中に支払いとかを済ませておかないといけない。途中、スタジオを抜け出してお金を両替。とりあえずホテルの支払いを済ませる。さらに夜は荷造り。そしたら、いきなりスゴい雨が降ってきた。本当はどこかに飲みに行こうと思っていたのだが、これじゃ外にも出られない。仕方ないからホテルで本を読んで過ごすことにした。

 さあ、明日は日本に帰る日だ。仕事がたまっていると思うと気が重いけど、気持ちを入れ替えて頑張るしかない。

 

3月23日(水)

 今日も朝からレコーディング。午後10時から夜8時まで頑張った。

 夜はシャルレス・ガヴィンとミーティング。1年ぶりに彼の家を訪れて、今後の企画についていろいろ語り合った。
 80年代を代表するポップ・ロック・バンド、チタンスのドラマーだったシャルレスだが、日本ではチタンスなんて聞く人がほとんどいないので、復刻シリーズの監修者としての仕事のほうが有名になってしまった。ブラジルがいまレコード会社の再編の時期ということもあって(なんとソニーとBMGが合併する)、彼のプロジェクトも一時停止してしまっているが、また近いうちに新しい企画が生まれることになるだろう。そのときは、これまで通り、ぼくもお手伝いさせていただくことになりそうだ。

 そのシャルレスから、彼が先に発表したボサ・ノーヴァのアルバムのジャケットを集めた本をいただいた。レコードと同じ大きさで、なんと重量は2キロ。5冊いただいたので、これだけで10キロになる。他にも荷物がたくさんあるので、はたして持って帰れるのかどうか…。
 ちなみにこの本はいまのところ非売品。このまま商品化されないで終わったら、かなりレアなものになるはずだ。どうしても欲しい人は、いまのうちに方策を考えておいたほうがいいかもししれない。

 

3月22日(火)

 今日も10時からレコーディング。セッティングはできているので、昨日よりさらに仕事がはかどる。午後4時までにベーシック・トラックを6曲録音した。

 夕方はあるレコード会社と打ち合わせ。と言っても日本での配給を目指してのそれではなく、いま作っているレコードの配給先探しだ。まだベーシックしかできていないアルバムの配給をこの時点で受け入れてくれる会社は、もちろんない。でも、コンセプトには自信があるし、ぼくがブラジルにいるうちに直接会って話をしておこうと思って、ミーティングをお願いした。話は聞いてくれたが、さてどうなることか。もしもうまくいったら、すばらしいことになるのだが。

 夜9時にはロブ・ジジタルというレコード会社の社長ロベルト・ジ・カルヴァーリョの自宅で夕食。ロブ・ジジタルは、ぼくがプロデュースしたモナルコのアルバム『俺のサンバ史』(ビクター)をブラジルで発売してくれた会社だが、このアルバムは昨年のチン杯(ブラジルのグラミー)で最優秀サンバ・アルバム賞を獲得した。ロベルトがその祝勝パーティをぼくがブラジルにいるうちにやりたいというので、今日してもらうことにした。
 彼の家はボタフォーゴとラゴアの中間の高台にあり、2階に上がるとラゴア(湖)が一望できる。さらに向こう側に見えるのが、リオの最大のファヴェーラ、ロシーシャだ。そんなすばらしい夜景を楽しみながら、秘蔵のピンガをゆっくり楽しませてもらった。

 

3月21日(月)

 今日から本格的なレコーディング。朝10時にスタジオに集まって、さっそく作業をスタートさせた。レコーディング初日はマイクのセッティングやサウンド・チェックに時間がかかってしまうものだが、今日は奇跡的なくらいスムーズに終わる。今回はリハを積んでのレコーディングだから、マイク・セッティングさえ済んだら後は作業が早い。今日だけで5曲ぶんのベーシック・トラックを録音することができた。

 夕方からは、明日のレコーディングのためのリハーサル。こちらも仕事はまったくスムーズ。午後8時くらいには終わることができた。

 今日はホテルの近くのコパカバーナ海岸でレニー・クラヴィッツの野外コンサートがある。入場料タダということもあって、何十万にもの若者たちが集まったようだ。そんな公演時間間近にホテルに戻ろうと思ったのだから、もうタイヘン。地下鉄は満員で乗れないし、道路も渋滞でタクシーがコパカバーナに行きたがらない。結局、近くの飲み屋さんでひとりビールを飲みながら夕食を取って時間をつぶすことした。結局ホテルに戻れたのは夜の10時だ。
 しかし、それだけでは済まなかった。会場がすぐ近くなので、コンサートの音がとんでもなく大きかったからだ。レニー・クラヴィッツが嫌いなわけではない。でも、レコーディングで疲れた後にコンサートを見に行く気には、とてもなれない。仕方ないからまた外に出て、もう一度近くの飲み屋でビールを飲むことに。コンサートが終わったのは12時くらいだっただろうか。でも、興奮した若者たちは1時を過ぎても街で大騒ぎしている。喧騒が収まったのは、やっと3時くらいだろうか。今日だけはコパカバーナに宿を取ったことを後悔した。

 

3月20日(日)

 今回の2週間のリオ滞在で唯一の完全オフがこの日。午前中に依頼原稿を少し書いたりもしたが、午後から夜にかけてはゆっくりさせてもらった。

 

3月19日(土)

 午前中はいつも通り、ホテルで原稿書き。お昼過ぎまで頑張って、近くのレストランで昼食を取ることにした。
 リオにいるときに一人で昼食を取ることは少ないのだが、その場合は、行くところはだいたい決まっている。ホテルの近くにある小さなブチキン(飲み屋さん)だ。どこでも300円くらいでシンプルな昼食を出してくれる。ご飯とフェジョン(豆の料理)に何かというパターンだ。でも今日は土曜日だったので、モコトーを作ってくれていた。そう、あのトリオ・モコトーのモコトーは、もともと料理の名前で、これがいかにもブラジルらしい美味しい料理なのだ。休みの日しか作らない理由は、食べてみたらすぐにわかる。あまりにヘヴィなので、食べた後には仕事にならないから。
 そんなものを食べてしまったので、食後はゆっくりシエスタ。午後4時頃に起きだして、リハーサルに向かった。なんか、生活がすっかりブラジル人的になってしまった感じだ。

 それが終わったのが夜9時。慌ててシャワーを浴びて、夜はオルランジーヴォとエンリッキ・カゼスのコンサートに行ってきた。場所はラパの新しい名所リオ・セナリウムだ。
 古い建物を改造して作ったと思われるリオ・セナリウムには、古い時代に使われていたものがあちこちに展示してある。古いラジオなんて、ぼくくらいの世代には懐かしいものだろう。そんな場所で、毎日良質なブラジル音楽を楽しめるということで、最近では観光スポットになっているらしい。今日も外国からのお客さん(日本人を含む)がたくさんやってきていた。
 そんな中で、公演は50分の3ラウンド。こんな長い公演は、ブラジルではちょっと珍しいだろう。まずエンリッキのグループがショーロを演奏して、途中からオルランジーヴォが加わるというパターン。オルランジーヴォは<サンバランソの王様>と呼ばれている人で、今年68歳だが、まだまだ元気で、今日もファンキーなサンバをしっかり楽しませてくれた。
 サンバランソとは、踊るためのサンバということだが、早く言うとシロ・モンテイロあたりがやっていたサンバ・ショーロの70年代ヴァージョンだ。シロとジョルジ・ベンを足して2で割ったような感じの音楽といえば、わかる人にはわかるだろうか。オルランジーヴォ自身、シロの音楽は好きだったようで、ライスから発売されている『永遠のボッサ』(ライス BSR-204)でも収録した「ファヴェーラのブギ・ウギ」なんかを取り上げていた。さらにそのルーツにあたるマリオ・レイスの「ジューラ」なんかも歌っていたのは、エンリッキにそそのかされたからだろうが、いずれにしてもリオの粋なサンバの伝統をいまに受け継ぐ大物らしい風格は、随所でしっかり感じさせてくれた。
 ちなみにオルランジーヴォがこれまで吹き込んだLPはたったの4枚。そのうちの1枚が先の<オデオン100年>シリーズで復刻されているので、関心のある人はぜひお聞き願いたい。彼はまだまだ新しいアルバムを作るポテンシャルを持った人だ。

 今日のコンサートでオルランジーヴォ以上に印象的だったのが、エンリッキの成長ぶりだった。彼とは毎年のようにスタジオで仕事をしているが、コンサートは10年ぶりくらい。当時と比べたらまるで別人かと思うくらいに余裕のある演奏を楽しませてくれた。今日の公演のように、ショーロのことなんて何も知らず、ただ踊りに来ているお客さんを相手にしても、しっかり自分の世界に引き込んでしまえるのだから、たいしたものだ。

 さすがに50分3ラウンドは体力が持たず、3度めが終わったところでひとり退散。ホテルに戻った。もう午前2時半。明日も仕事があるので、早く寝ることにしないと…。

 

3月18日(金)

 リオにやってきてはじめての曇り空。昨日までの暑さとはうって変わって、過ごしやすい一日だった。
 でも、暑いリオでの生活になれてきたせいか、いまは朝から暑いくらいじゃないと、散歩の張り合いがない。昨日までは汗ビッショリかいてホテルに戻ったのに、今日は途中でジュースを飲もうとすら思わなかった。
 ジュースと言えば、こちらに来て一番の楽しみがジュース・スタンドだ。トロピカル・フルーツのフレッシュ・ジュースが2レアル(約70円)で飲める。しかもミックスしてもらってもほぼ同じ金額だ。ぼくのお気に入りはパイナップルとメロンのミックス・ジュース。散歩の帰り道にこれを飲むと生き返った気分になる。ブラジル滞在中のささやかな楽しみのひとつだ。

 午前中はいつも通り、ホテルで仕事。そして11時にエンリッキたちとショーロの映画の試写会に出かけた。なんでもフィンランド人が制作した映画らしく、当社で配給しているトリオ・マデイラ・ブラジルのメンバーを中心に、いまのリオのショーロを代表する音楽家たちが総出演するという豪華な内容だ。若手だけでなく、最高のバンドリン奏者ジョエール・ナシメントや<ショーロ・ヴォーカルの女王>アデミルジ・フォンセーカのようなベテランも登場するし、なぜかエルザ・ソアーレスやテレーザ・クリスチーナも出てくる。そんな演奏シーンだけとってみれば、ブラジル音楽ファンなら楽しめる内容だろう。  
 ただ個人的には、ショーロの魅力を的確に伝えた内容かどうかは疑問。大きなパートを占めるインタビュー・パートがポルトガル語がわからないとちょっとキツそうな印象を受けた(ブラジル人にしか理解できないギャグがけっこう多い)。外国人が作ったわりには、外国マーケットに向けた内容になってない印象を受けたが、どうなのだろう。
 近いうちにヨーロッパ各地で上映されるのだとか。どんな反応が出てくるのか、楽しみだ。

 午後は一休みした後に、あるレコード会社とのミーティング。内容はいつも通り、社外秘だが、交渉はうまくいったので、近いうちに新譜情報に結果が出るだろう。ぼくが帰国した後のサンビーニャは、ブラジル音楽のアルバムのリリースが急増するはずだ。

 みんなが遊んでいる金曜の夜なので、珍しく12時近くまでビールを飲む。夜には雨が降ってきたが、どの飲み屋さんも人が溢れるほどで、リオの夜は相変わらず元気だ。
 ラパ区ではエンリッキとオルランジーヴォたちがコンサートをやっている。二人に見に来るように誘われたが、2時すぎまでのダンス・ショウに付き合っているほどの体力は残っていない。タコ料理を食べ終わったところでホテルに戻って寝ることにした。

 

3月17日(木)

 朝6時に起きて空港へ。サンパウロの朝の交通渋滞はかなりヒドいらしいので、早めに空港に向かうことに。今日は15分で到着したけど、出発する時間がもう少し遅れると、1時間かかることもあるらしい。

 9時にはリオに着いて、まずはホテルへ。10時にはエンリッキと打ち合わせ。アレンジもだいたい決まって、後は細かい修正作業だけだ。明日からはリハーサルをするつもりなので、入念にチェックしないといけない。
 とは言っても、リオは暑い。冷房もない部屋で何時間も集中して仕事するなんて不可能だ。結局2時過ぎにはふたりでビールを飲みはじめることに。それから昼食を取ってお昼寝。やっぱりリオでの生活はノンビリしている。

 夜はホテルで仕事を進めた後、シャルレス・ガヴィンの出版記念パーティを訪れてみた。シャルレスは有名なコレクター氏(名前を忘れた)と一緒にボサ・ノーヴァの時代の貴重なアルバムのジャケット写真を収録した本を出したのだが、その発売記念イヴェントをホテルの近くのCDショップでやるというので、顔を出してみた次第。
 でも、時間より少し遅れて会場に足を踏み入れたら、大ビックリ大会。なんと会場にはボサ関係者たちがドドッと勢ぞろいしているではないか。ドリス・モンテイロ、レニー・アンドラージ、ヴァンダ・サー、ロベルト・メネスカール、ペリー・リベイロ、ドゥルヴァル・フェレイラ、アントニオ・アドルフォ、ウィルソン・ダス・ネーヴィス…。そうこうしているうちに、そんな人たちがかわるがわるステージに登場して、即席セッションをやりはじめてしまったのだから、ますますビックリだ。なんか、とんでもないものを見てしまったという気分…。
 そんなパーティだから、当然テレビの撮影クルーも来ているし、新聞記者らしき人もたくさんいる。あっちでパチパチ、こっちでパチパチ、フラッシュがたかれる。ぼくもシャルレスとのトゥー・ショットをしっかり収められてしまった。
 思えばシャルレス・ガヴィンは80年代ポップ・ロックを代表するチタンズのドラマー。そんな人がボサの本を作って、こうして古い世代の音楽家たちにスポットを当てるキッカケを作ってしまったのだから、面白い話だ。<チタンズの次のアルバムはボサ・ノーヴァかい?>なんて質問がステージの歌手たちから飛び出して、シャルレスは思わず苦笑いしていたが、こういった世代を超えた交流を持てたことはボサ・ノーヴァにとっても良かったのではないかと思う。
 その結果、何か面白いレコードでも作られたらもっとすばらしい。そうだ、ブラジルにいる間にシャルレスともう一度会って、そのことをけしかけてやろう。

 

3月16日(水)

 朝はいつも通り、海岸の散歩からスタート。食事の後にあるプロモーターに依頼されていたプレス・リリース用の原稿を書き上げた。そして午前10時にサントス・ドゥモン空港へ。今日はレコーディング関係の仕事がお休みなので、サンパウロに飛んでいくつかのレコード会社との打ち合わせをこなすことにした。

 打ち合わせの相手やその内容はもちろん社外秘。ここでは書くことができない。まあ来月になれば、当社の新譜情報でわかってしまうことだろうけど。
 そんなことよりも、思い出してみればぼくがサンパウロを訪れるのは、なんと18年ぶり。毎年のようにブラジルに来ているのに、いつもスタジオ仕事ばかりで、リオを(というより、スタジオ周辺を)一歩も出ていなかったということに、今日気がついた。
 ぼくが最後にサンパウロに行ったのは、ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラとウィルソン・モレイラのアルバムの発売記念公演に同行した時(たしか87年)。それも、たった1日半の滞在で、ホテルとコンサート会場を往復しただけだ。それ以前というと、83年まで遡る。勤めていた赤坂のレストランが閉まって失業してしまった時、ぼくは2度目の南米一人旅をしたのだが、確かあのときにはサンパウロに1週間か10日ほど滞在した。だから、実質的には22年ぶりのサンパウロということになる。
 81年にはじめてブラジルを訪れたときには1ヶ月ほど滞在したサンパウロだったが、そんな80年代前半といまとでは、まったく別の街と言っていいくらい、大きく変貌していた。一番の違いは、街の大きさ。そして交通量の多さだ。インドネシアのジャカルタやタイのバンコクほどではないにしても、サンパウロの交通渋滞はかなりシリアスだ。ここにいると、リオでの人々の生活はすごくノンビリしたものに思えてくる。
 でも、そんなサンパウロにも憩いの場所はある。以前に訪れた時に大好きになったベラ・ヴィスタ区(通称ベシーガ)だ。中心街の近くにあるイタリア人街がベシーガで、サンパウロを代表するサンバ音楽家、故アドニラン・バルボーザもこの地区のことをよく歌っていた。ベシーガにはレストランやバーで音楽のナマ演奏を楽しませてくれるところが多い。モナルコやネルソン・サルジェントなど、ぼくがレコードを作ったリオのサンビスタたちが公演したお店もあるようだ。
 ぼくがベシーガを訪れたのは、ライスで配給したギリェルミ・ジ・ブリートの最近の2枚のアルバムを制作したルア・ジスコスという会社の社長ゼー・ルイスさんが、そんなベシーガのあるライヴ・ハウスのオーナーであることを思い出したからだ。その時には色々な面でお世話になっていたのに、直接お会いしたことがなかった。だから、この機会に挨拶にお伺いすることにした。 
 ゼー・ルイスさんはぼくの仕事のことをすごく良く知っていて、LP時代からぼくが作ってきたレコードをすべて買ってくれていたらしく、ぼくが忘れてしまったことまで覚えているくらいだった。リオのサンバのことも、とても詳しい。そんなこともあって話はすごく盛り上がり、ちょっとだけ挨拶のつもりが、結局11時近くまでビールを飲んで過ごすことになった。

 本当は今日のうちにリオに帰るつもりでいたのだが、予定を変更してサンパウロに宿泊。でも、明日はお昼前にリオで打ち合わせがあるから、あまりノンビリしていられない。早く寝ることにしないと。

 

3月15日(火)

 今朝も6時に起床。昨日に続いて海岸を一時間ほど早足で歩いた。そこで改めて実感したのがリオの夜明けの美しさだ。コパカバーナ海岸から見ると、朝日はグァナバーラ湾の方から昇ってくる。対岸に見えるのは二テロイなのか、湾に浮かぶ島なのか。この景色が、実になんとも信じられないくらい美しい。リオの夜明けの美しさを歌ったサンバは多いが、その理由もわかってくるというものだ。それにこんな生活をしていると、夜遅くまで飲んだくれてる人間がバカに思えてくる。やっぱり人間は早く起きるべきだ。そこで得るものは限りなく大きい。

 爽快な朝を迎えると、その後の仕事もどんどんはかどる。朝はいつもとおり、原稿書き(今日は準備だけだったが)。そして11時から打ち合わせ。タンゴとサンバの関係を探るというテレビ番組(もちろんブラジルのテレビ局の制作)のインタビューを受ける。ブラジル人にショーロの歴史を説明する日本人なんて、ぼくだけだろう。そして午後は取引先との打ち合わせ。これの内容はもちろん社外秘だ。昼食を取った後は、昨日に続いてレコーディングの準備を夜まで続ける。レパートリーやアレンジがだんだん決まってきた。

 60年代に<サンバランソ>というスタイルで一世を風靡したオルランジーヴォが今日からリオでショウをやっているようだ。土曜日のベト・カゼスくんの誕生パーティで知り合ったときに本人がそう言っていた。しかも、バックを務めるのは、なんとエンリッキ・カゼスのクァルテートというからビックリだ。もちろん、<サンバランソ>というのはシロ・モンテイロらのボッサ系のサンバの発展形(ライス盤『サンビスタ・ジ・ボッサ』参照)だから、もともとショーロとは縁がある。伴奏がショーロ楽団であってもまったく不思議ではないのだが、でもダンスがからっきし苦手なエンリッキがダンス系の音楽の伴奏をやるというから面白い。ショウは土曜日までやっているようなので、週末にでも冷やかしに行ってみよう。

 打ち合わせを終えて、7時にホテルに戻り、ゆっくり本を読んで過ごす。明日も早起きしないといけないので、今晩は外出を控えよう。それに今日になって、やっと時差ボケが解消されてきた。夜に自然に眠たくなるというのは気分がいい。このペースを崩さないようにしないと。

 

3月14日(月)

 昨日に続いて、今日も朝6時に起きて海岸を散歩。これが最高に気持ちいい。クセになりそうだ。1時間ほど歩くのだが、波打ち際を裸足で歩いていると、足の先から身体全体が浄化されてゆくような気分になる。

 ブラジルにいてもぼくの日課はさほど変わらない。朝食の後は、メールのチェック。そして原稿書き。ただ違うのは、日本とは12時間の時差だが、ヨーロッパとの時差は少なく、返事がすぐに出せることだ。昨日は、ぼくがブラジルにいることを知らない取引先の人から、こんな時間にまだ起きているのか、というメールをもらった。また原稿書きは、若い時には外国にいるときはまったくできなかった。一日中そこの国の言葉で話した後、急に日本語が出てこなかったのだ。でも、いまはあまり関係ない。ブラジルにいると、話しているのはポルトガル語が100パーセントだが、こうしてパソコンに向かえば自然にアタマが日本語にシフトされる。若い頃よりアタマの切り替えができるようになったのだろう。

 午前10時からエンリッキ・カゼスとレコーディングの打ち合わせ。やっと曲目がほぼ出揃ってきた。あとはそれぞれのアレンジについてだが、これは今晩じっくり考えることにして、昼食後にはスタジオに行ってセッティングなどをエンジニアと話し合うことに。今回はいろいろ事情があって、セッション時間がとても少ない。だから、できるだけスムーズにゆくように準備しないといけない。

 夕方にホテルに戻ったら、また睡魔が襲ってきた。昼食でビールを飲んだせいだろう。でも、今日の午睡は2時間だけ。7時には起きだして、明日の原稿書きの準備をはじめた。さらにメールもチェックして、今日の仕事はいちおうおしまい。夜は近くの飲み屋さんで魚料理をつまみながらビールを楽しむことに。ここはホテルから歩いて5分ということもあり、数年来の行きつけの店だ。だから、お店の人たちもみんな知っているし、ゆっくりくつろげる。日本人や観光客がまずやってこないのもいい。たまにしか来ないぼくを覚えてくれているのは、他に日本人のお客さんがいないからだろう。今日はイワシとジャガイモの料理をつまんで、ビールを少し。美味しかった。

 

3月13日(日)

 ヒドい時差ボケ。寝たのは午前4時なのに、7時には目覚めてしまった。もうこれ以上眠れない。まだ身体が日本時間で動いているのだろう。時差12時間の克服には時間がもう少し時間がかかりそうだ。

 すごく天気が良かったので、ホテルの近くのコパカバーナ海岸を散歩。朝のうちはさほど暑くないと思ったが、海岸の端から端まで歩いたら、ビッショリ汗をかいていた。ホテルに戻ってシャワーを浴びてから朝食。これくらい運動したら少しは眠れるかと思ったが、全然ダメで、仕方ないから、持ってきた原稿書きの仕事をスタートさせた。

 午後はエンリッキ・カゼスの自宅で打ち合わせ。今回のアルバムは、これまで作ってきたどのアルバムよりもややこしいので、打ち合わせは念入りにやらないといけない。今日は、とりあえず決まっている曲に参加するミュージシャンの確認。ただ、ぼく以上にエンリッキのほうが疲れているみたいなので、午後3時くらいには終わりにして、後は食事をしながら話すことに。

 遅い昼食はアラブ料理屋さんで取ることにした。たぶんあまり知られていないと思うが、ブラジルにもアラブからの移民はけっこう来ていて、アラブ料理のレストランは、少なくともリオでは多い。セントロにはアラブ人がたくさん住む地区もあるくらいだ。ぼくもエンリッキもこのアラブ料理が大好きなので、二人で食事するときにはよくセントロまで食べに行く。もちろんブラジル人向けに多少はアレンジしたアラブ料理なのだろうが、でも多くの人が想像するそれよりもずっと本格的だ。それに安い。

 昼食を取ったら、急に睡魔が襲来。エンリッキも少し横になるというので、ぼくもホテルに戻って午睡を取ることにした。本当はここをガマンして、ちゃんと夜に寝たら時差ボケも早く治るのだろうけど…。

 夕方6時に目が覚めたら、ホテルのフロントから電話で、マイアミで止まっていたトランクが届けられたとのこと。さっそく荷物を取り出して、衣服などを整理する。仕事に必要なCDや旅行中に読もうと思っていた本もやっと手元にそろった。

 さっき寝たばかりなのに、午後9時にはもう眠たくなってきた。夜に眠たいのは良い兆候だ。これで明日の朝までしっかり眠れれば時差ボケは解消できるかもしれない。近くでマリア・クレウザやマリア・ベターニアのコンサートがやっていたようだが、そんなのを見ていたらまた午前様になってしまう。今日は余計なことをせず、しっかり寝ることにしよう。さあ、明日から本格的な仕事がはじまるぞ。

 

3月12日(土)

 朝10時にリオ・デ・ジャネイロに到着。心配したとおり、飛行機はどれも満員。ゆっくり寝ることはできなかった。しかも、ダラスで2時間も出発が遅れたため、マイアミでの乗り換え時間がギリギリ。きっとそのせいなのだろう、リオに着いたら荷物が出てこなかった。マイアミで取り残されたようだ。明日の便で届いたらホテルに届けるという飛行機会社の説明を信じて、とりあえずホテルへ。

 リオはいま夏の終わり。でも、外は35度くらいあるのだろうか。とにかく暑い。冬の日本から来ると、なおさら暑く感じる。それに汗をかく。そこで困ったのが、カバンが出てこなかったので、着替えがないことだ。明日まで待つわけにはゆかず、とりあえず近くのお店でシャツなどを買い込むことにした。と言ってもTシャツに短パン、サンダルくらいのものだから、金額的にはたいしたことはない。リオの人、とくに海が近いコパカバーナあたりに住んでいる人はみんな軽装だから、ぼくも着るものは気にしないで済む。
 それからシャワーを浴びて昼食。メールをチェックしたところで、もう体力の限界がきた。12時間の時差ぼけを解消するには、もう少し起きていないといけないのだが、もう若い頃のようにはゆかない。3時過ぎから7時までゆっくり熟睡。それから起きだして、明日からの仕事の準備をはじめた。

 今日は親友のパーカショニスト、ベト・カゼスくんの50回目の誕生日。大学の同級生だったという奥さんもちょうど同じ時期の誕生日ということで、合わせて100歳記念のパーティが近くのクラブで開くことになっていた。スタートは夜の9時。でも、リオの人たちが9時開始という場合、9時にはまだ誰も来ていない。みんなが集まって盛り上がるのは1時くらいだろうと予想して、ぼくは11時に顔を出すことにした。案の定、演奏がはじまったのは、ぼくが着いたちょっと後の12時頃。ベトの弟エンリッキ・カゼスはもちろん、ジョエール・ナシメントらショーロ音楽家たちがたくさん集まって、まずはショーロでパーティがスタートだ。さらに遅い時間になったら、サンバ歌手たちが次々と登場。最後にはモアシール・ルースもやってきて、元気な歌声を楽しませてくれた。
 ベトのお母さんにも20年ぶりに再会。他にもしばらく会えなかったミュージシャンや友人たちにまとめて会えたし、復刻レコードでおなじみのオルランジーヴォにも知り合えた。まずは楽しいリオ初日の夜だ。

 さあて、明日から仕事がスタート。ゆっくり寝て疲れを癒すことにしよう。

 

3月11日(金)

 今日からブラジルに出張。でも飛行機は夜なので、朝は原稿書きを少し進められた。来週発売のヨルゴス・ダラーラスのアルバム解説を脱稿。午後から事務所に行って、支払いと今後の打ち合わせを少し。それから自宅に戻って荷造りをして慌てて空港へ。

 夜7時過ぎのアメリカン航空でダラスへ。そこで別の便に乗り換えて、今度はマイアミへ。さらにもう一度乗り換えて、やっとリオ・デ・ジャネイロに向かうというのが、今回のスケジュールだ。昨晩、あまり寝ていないので、とにかくゆっくり眠りたいところだが、さて飛行機の込み具合はどうだろう。ちょっと心配。

 

3月10日(木)

 昨日のお酒が思い切り残っているが、そんなことは言ってられない。明日から海外主張なので、今日も準備に大忙しだ。リスト原稿と『いにしえのファド』(ライス CNR-3004)の解説は早々に書き上げて、午後は持ってゆく荷物の準備。レコーディングとは言っても、昔みたいにアナログのマルチ・テープを持ち歩くことはなくなったから、荷物はグッと少なくなったが、それでも向こうで会社仕事ができるように資料などはちゃんと揃えておかないといけない。そんなものを揃えるだけで、すぐに小さなトランクが一杯になってしまった。

 さあ、明日は早く起きて、残りの仕事を片付けないと。

 

3月9日(水)

 今日は朝早く起きて原稿書き。午前中にアキム・エル・シカメヤのアルバムの解説を書き上げ、午後には来週発売の『いにしえのファド』の解説もほぼ仕上げることができた。それから事務所で明日のリスト作成の準備。そして海外出張中のリストの準備も少し。昨日までの取引先とのメールのやりとりで、4月のリリースはほぼ決定することができた。これで安心して海外出張に出ることができる。

 3年ちょっと前に父が亡くなった後、父の会社で起きた問題の裁判をずっと手伝ってきたのだが、その一審判決が出て、無事勝つことができた。相手の言い分はすべて退けられたようなので、全面勝利だ。そこで夕方から弁護士さんと盛大に祝杯。こんなに酔うまで飲んだのは、本当に久しぶりというくらい飲んだ。まだ控訴審があるかもしれないので気は抜けないが、とりあえず肩の荷がおりた気分だ。
 この裁判、勝ったからって、ぼくは1円も儲かるわけではない。でも、亡き父の供養になると思うと、すごく嬉しい。思えば長男なのに父の仕事も継がず、ずっと好き勝ってやってきたけど、そんなぼくができたはじめての親孝行かもしれない。

 

3月8日(火)

 今日は打ち合わせの連発。ぼくとしては非常に珍しく朝から外出して、来日関係の打ち合わせを済ませた。その後も打ち合わせが2本。こうなると、ますます自分の仕事は進まない。イライラがつのる。最近のぼくは、外での仕事が仕事が本当に不得意になってしまったようだ。

 帰宅が遅くなったので、めずらしくひとりで外食。誰かと打ち合わせしながらではなく、ひとりで外食するのは今年はじめてかも。プロの料理人さんの作るものは美味しいけど、今日はどうも落ち着いて料理を楽しめない。

 

3月7日(月)

 週のはじめはいつもせわしないが、今日もなんとも慌しい一日だった。朝は早起きして原稿書きを進めていたのだが、例の来日するバンドについてプロモーターさんから連絡が相次ぎ、途中からそっちの仕事に集中せざるをえないことに。そして夕方は打ち合わせ。これじゃ、通常の仕事は進まない。週末からブラジルに行かないといけないので、今日は一日原稿書きを進めようと思っていたのだが…。

 

3月6日(日)

 原稿書きを進める予定でいたのだが、あまりに疲れを感じたので、今日は完全休養を取ることに決めた。前に休んだのがいつだったか忘れるほど、久しぶりのお休みだ。やらないといけない仕事はたくさんあるけど、また無理して身体を壊しても仕方がない。昨年は2度も調子を崩してしまったが、今年はそれを繰り返すわけにはゆかない。
 休みと言っても、特別なことをしたわけではない。掃除や洗濯や食料の買出しを済ませて、ちょっとサッカー中継を見たら終わってしまった。お金があれば浅草あたりで美味しいものを食べたいところだったが、いまは先立つものがない。会社がもう少し儲かって給料をもらえるようになるまでガマン、ガマン。

 

3月5日(土)

 土曜日だけど、今日も当然仕事。朝は原稿書きを少し進めて、お昼から昌くんと来月発売予定の自社制作盤のマスタリング。このアルバムは久しぶりにアナログで録音。ミックスまでやってきたのだが、いちおう音源はデジタルに落としてはきたものの、やっぱりアナログ・ミックスのパワフルな音にはなかなか太刀打ちしようもない。久しぶりに聞くアナログの音のブットさは感動的だ。いちおう何曲かはこちらでミックスしてみるつもりだが、たぶん多くのトラックは現地ミックスを使うことになるだろう。

 夜は4月リリースのアルバムの選択作業。来週末から外国に行ってしまうので、4月いっぱいの予定を決めておかないといけないからタイヘンだ。いちおう候補作はあがっているのだが、いつもながら、ぼくが出したいと思っても相手があるものなので、思ったようにはゆかない。取り合えず今日は取引先数社にメールで打診。後は月曜日に返事がくることを祈るしかない。

 最近疲れているのか、仕事が終わって食事をすると、すぐに眠たくなる。こうなると趣味のレコードを聞く時間が取れない。海外仕事の前に一日くらいは休みを取りたいところだが…。

 

3月4日(金)

 朝起きたら銀世界。久しぶりの大雪だ。昨晩はこれほど積もると思ってなかったので、ビックリしてしまった。でも太平洋側に雪が降るということは、気圧配置が冬型ではなくなっている証拠。これで冬は終わりなのだろう。今年の冬は寒かった。この雪が、春が近づいてきたことを告げているのだったらありがたい。

 今日は会社仕事を休んで、朝から別の原稿書き。しばらく仕事を休んでいないので、本当は完全休養を取りたかったのだが、やらないといけない他社仕事があったので、そちらを終わらせることにした。ぼくは基本的に他社の原稿を書かない。依頼が来ても、ほとんどはお断りしている。でも、断りきれないものも時にはあるから仕方がない。

 ただし原稿は午後早い時間に終わったので、夕方はCDラックの整理に没頭。やっとだいたいのCDが棚に収まった。まだ細かい移動はあるだろうが、とりあえずすべてのCDが探しやすくなったので、少し安心だ。この後は、あまりに不要なものが多くなっている本棚を整理しようと思っているのだが、こちらは簡単にはゆかなそうな雰囲気。一度全部を棚から出して整理するとしたら、とんでもなく時間がかかりそうだが、そうでもしないとはみ出している本は永遠に棚に納まらない。まあ、新しい本棚を買う必要はなさそうなので(と言うより、これ以上本棚が入らない)、コツコツやってゆくことにしよう。

 

3月3日(木)

 今日はリスト作成日。今週のメインはギリシャ音楽の現役最高峰ヨルゴス・ダラーラスの2枚組ライヴ『マルコス・ヴァンヴァカーリスに捧ぐ』(ライス TMR-3802)になった。発売は3月20日。ダラーラスの近作だが、相変わらず気合が入っている。男らしいすばらしい歌声だ。
 そして3月27日には、中村とうようさん監修の『アメリカン・ミュージックの原点』(ライス ASR-4301
がいよいよ登場する。こちらもはじめてリストに掲載。詳細は他のページで見てください。

 実は昨晩、久しぶりに外で飲んだので、今朝はちょっと二日酔い。でも、やらないといけないことはたまっているので、リスト仕事の後も自宅で調べものを続けた。まず大事なのが、来週発売のアキム・エル・シカメヤの『アイニ』(ライス LLR-570)の解説の準備だ。アキムのこのアルバムは昨年のウォーメックではじめて聞かせてもらったのだが、すごく可能性を感じさせる音楽で、ぼくはすぐに好きになってしまった。
 アキムはアルジェリアのオラン出身の若手歌手だが、ライを歌うわけではない。彼が目指しているのは、地中海音楽の古層にあるアラブ=アンダルース音楽の現代的再構築だ。と言っても、研究発表アルバムではけっしてなく、アクースティックでとても聞きやすいサウンドにまとめてくれているので、誰にでもお勧めできる。アラブ=アンダルースというのは、キリスト教徒がイベリア半島を支配する以前のイスラム時代の文化で、当時のイベリア半島ではイスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も一緒に暮らしていた。そんな時代の文化が地中海音楽の古層に流れていることは間違いないとぼくは思っているわけだが、そんなアラブ=アンダルース音楽をこれほどポップで親しみやすいサウンドで聞かせてくれる歌手が現れるとは思わなかった。
 このアルバムの発売は来週末。どうぞお楽しみに。

 午後に久保田麻琴さんから電話。どうも今年は久しぶりにインドネシアでレコーディングをすることになったらしく、スタジオなどの最新情報を提供した。ただ、久保田さんはその仕事を早く終わらせて、6月にはまたレシーフェに行きたいのだそうだ。ブラジル北東部音楽にはかなりハマッている模様です。

 夜は新宿でプロマックスの早川さんと打ち合わせ。9月に予定しているあるグループの来日公演の話はかなりのところまで進んでいるらしく、今日は具体的な条件の話をまとめた。これでOKなら、1週間くらいで正式発表できることになるだろう。いま日本のワールド・ミュージック・ファンが一番ナマで聞きたいと思っているであろうあのバンドの来日だけに、正式に決まったら嬉しいニュースになりそうだ。

 

3月2日(水)

 今週の分の会社関係の原稿仕事が終わったので、今日はブラジルのレコーディングの準備と、次の自社制作アルバムのための調査/研究。ブラジルのほうは、全部は決まっていないが、だいたい準備が整ってきた感じ。後は向こうについてからミュージシャンたちと最後の詰めをすれば大丈夫だろう。自社制作盤のほうは、まだまだやるべきことはあるが、別の理由で進行が遅れているので、あまり慌てていない。こちらもだいだい見えてきた感じだ。

 夜は新宿でタワー・レコード渋谷店の小樋山さんと新宿店の篠原さんと毎月恒例のミーティング。近況を報告しあった。今月はタワーレコードの決算月。これはタワーに限らず、どのお店もそうだが、決算のときは注文が少なく、しかも返品が多いのでこちらも困ってしまう。でも当の本人たちは、もっとタイヘンだったようだ。

 

3月1日(火)

 今日から3月だが、別に何も変わるわけではない。とにかく会社をつぶさないように、全力で仕事をするだけだ。悔いを残さないように…。
今日も朝から原稿書き。今週末に発売になるガリフーナ・オールスターズの『パランダ』(ライス EAR-569)の解説原稿を午前中に書き上げた。このアルバムについては日記でも紹介したが、中米に残された幻のアフロ系音楽の貴重なアルバム。先週から何度も聞いたのだが、聞けば聞くほどすばらしくて、いまではすっかりパランダ・ファンになってしまった。歌っている多くはベテランたちなのだが、これがまるでエスコーラの古老サンビスタたちと同じようなシブい歌声。そこで思い出したのがサンバの名盤『すばらしいサンバの仲間たち』(いまはオーマガトキから配給されている)だ。これからはガリフーナの古老歌手たちをパランダのヴェーリャ・グァルダと呼ぶことにしよう。ちなみに彼らは<ブエナ・ビスタ>なんかよりもずっと面白い。多くの音楽ファンに聞いてもらいたい一枚だ。

 午後は海外送金のために銀行に。送るべきところに送ったら、もう会社の口座がカラになってしまった。今月はもう余計な出費はできない。切り詰めてゆかないと。

 

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