3月31日(土)

  今週はアレコレと慌しく過ごしたので、残務仕事がたくさん残っている。今週こそ週末はゆっくり休もうと思っていたが、そんな悠長なことを言っていられる状況ではなくなってしまった。返信しないといけないメールはたんまりたまっているし、チェックしないといけないサンプルも山積み。それに、どうしても今週中に調べておきたいことがひとつあって、新しいCDをいくつかチェックすることになった。

 今週中に調べておきたかったこと、というのは、明日発売になるモーリタニア出身の女性歌手マルーマの新作『ヌール』の解説原稿についてだ。この解説は、予定が変更になってぼくが書くことになり、なんとか火曜日には書き上げたのだが、そのときに困ってしまったのが、伴奏者のクレディットをいくらチェックしても、ティディニットという楽器の演奏者が記されていなかったことだ。
 モーリタニア音楽に関して詳しい方はご存知かもしれないが、この国のグリーオたちはティディニットという、4〜5本の弦を持つハープのような楽器を伴奏に歌う。これが伝統のスタイルであり、モーリタニア音楽の伝統の象徴がこのティディニットだとも言える。マルーマも、前作『ドゥニア』では当然、この楽器を多くの曲で伴奏に加えていた。
 でも今回のアルバムは、前作に比べて格段にモダンな作りで、キーボードによるサンプリング音などもたくさん導入される。その中にティディニットらしき音も聞こえるのだが、どうにも確信が持てない。CDにクレディットされていないのに、それがティディネットの音だと決め付けるわけにはゆかず、困りながら、結局原稿には<モーリタニア音楽を代表する楽器であるティディニットこそ、ほとんどフィーチャーされていないが(キーボードとの共演ではチューニングに問題があったのだろうか)、伝統的な弦楽器はフィーチャーされているし、パーカッションや女性コーラスもマルーマのグループの人たちだ>というあいまいな書き方をした。
 ただ、どうしてもこのティディニットらしき音が気になり、本当にフィーチャーされていないのかどうかを知るためにも、この音が聞けるもっと伝統的なモーリタニア音楽のCDをチェックして調べてみようという気になったのだ。マルーマのアルバムは2枚とも、伝統音楽の要素を受け継いではいるものの、基本的には現代的なポピュラー音楽だ。特に最新盤では伝統楽器の音もミックスでかなり加工されているので、この楽器のもともとの音を知るには、もっと伝統スタイルのアルバムを聞くしかない。
 そこでアレコレ探した末に見つけたのが、OOLEMA MINT AMARTICHITT(どう発音するのか不明)という女性歌手のアルバム(仏ロング・ディスタンスの配給)だった。今日はさっそくこのアルバムをじっくり聞いてみたのだが、そしたらその音楽にも、そして英文解説にも、ビックリさせられてしまった。
 まずは解説のほうだが、それによると、ティディニットというのはあくまで男性が演奏するための楽器であって、女性は手も触れないのだそうだ。で、女性が演奏する楽器は他にあるらしい。それはアルディン(ALDIN)という楽器で、ティディニットとほぼ同じような形だが、こちらは弦の数が多く、10本から14本くらいあるのだそうだ。たしかにアルディンという楽器なら、新作でもマルーマ自身が演奏しているとクレディットされている。要するに、ぼくがティディニットだと思えた楽器は、このアルディンだったのだ。そう、ティディニットはたしかにフィーチャーされていなかったが、同系の楽器はちゃんと入っていたのである。
 そしてもうひとつ驚かされたのが、このロング・ディスタンス盤で歌う女性のすばらしいまでに迫力タップリの歌声だ。このアルバムはプレイズ・ソングばかりを集めた内容。いわばグリーオ本来の仕事を録音したものだが、これが想像を絶するほど迫力満点の音楽。リズムはほとんど8分の6拍子で、伴奏はアルディンと手拍子といくつかの打楽器が入るだけだが、ソロを取る女性歌手は、女性ばかりのバック・コーラスを従えて、これでもか、というほどブルージーで泥臭い歌声を聞かせる。こんなに迫力のある歌声は、ちょっと珍しいだろう。しかも、1曲歌ったら声がカラカラにかれてしまうのではないかと思うほどの絶唱ぶりだ。
 きっとマルーマも、本業ではこういう声を聞かせるのかもしれない。そして彼女が言っているように、モーリタニアの伝統的なグリーオの音楽は、どこかブルースと共通する部分があるようにも感じられる。このロング・ディスタンス盤を聞いて、はじめてそのことを納得させられた。
 残念ながら初回出荷分の解説では、いま書いたようにアルディンという楽器について、触れられなかった。でも、今後出荷する分には、そのことを書き加えた解説に差し替えようと思っている。
 そうそう、アラブ研究所のシリーズにもモーリタニア音楽のアルバムがあり、そこではブックレットにアルディンを演奏する女性グリーオの写真が添えられていた。本場のグリーオをまじえた小さな集会、という感じの写真で、なかなかすばらしい。せっかくだから、お見せしておくことにします。

 

3月30日(金)

 月末の支払日は、ぼくにとってもっとも慌しい一日だ。忙しい、というほど忙しいわけではないが、お金に関わる仕事は、どうしても気疲れする。数字ばかりを見ていると目も疲れる。おかげで夕方にはすっかりショボショボな目になってしまった。
 こういう日は、夜に日記を書く余裕はない。余計なことをしないで、早く寝ることにします。

 

3月29日(木)

 『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』が発売直後からかなり話題になっているようだ。アルバムに収録しなかった曲を入れたCDRをオマケでつけるとこのサイトでアナウンスしたら、いきなり注文が殺到。もうすぐ予定の100枚が終わってしまいそうなところまできている。ライスの復刻盤シリーズで発売直後からこれほど注文が殺到するなんて、もちろんはじめて。さすがにジョアン・ジルベルト。熱心なファンが多い。
 そんな中、早くも続編を望む声があがっているようだが、ぼくは出し惜しみをできる性格ではない。ジョアンに関してはもう良い音源を使い果たした。これで本当におしまいです。続編はありえないことを、いまからお詫びしておきます。

 それにしても、桜は満開で、すばらしいお天気。最高の花見日和だ。こんなときは仕事をほっぽらかして、会社をあげて花見でもすれば楽しいのだろうが、月末のこんな時期にそんな余裕は、もちろんない。会社からの帰り道で近くの公園の遊歩道に咲く桜を眺めるのが精一杯だ。でも、そうして歩きながら眺めるだけでも、桜はやっぱり美しい。日本人に生まれて良かったと、毎年この時期だけは思います。

 

3月28日(水)

  ヨーロッパでは5月から7月が夏フェスティヴァル・シーズン。各地で音楽フェスティヴァルが盛大に開かれる。当然、ワールド関係のアーティストが出演するフェスティヴァルもけっこう多い。
 実は毎年、その時期を狙ってワールド関係の新譜が数多く発売される。4月あたりに新譜を出し、5月からはフェスティヴァルをはしごしながらプロモーションをこなす、というのが、レコード会社の狙いだ。だとすると、3月末のいま頃には新譜情報が各社から送られているのが普通なわけだが、でもなぜか今年に限っては、まだそういった知らせがほとんど届かないから不思議だ。というか、ぼくらとしては正直、困ってしまっている。試しに各フェスティヴァルの出演者たちをサイトでチェックしてみたが、どこも小粒。ぼくらの知っている人が非常に少ない。新譜を出してツアー、という感じの人たちではなさそうだ。ひょっとして、ヨーロッパのマーケット自体がかなり冷え込んでいるということなのだろうか。
 そう言えば、イギリスやフランスのレーベルの新作をチェックしても、自社原盤よりもライセンスものの方が圧倒的に多い。反対に、頑固に自社ものだけを出している会社はごく少数。これがいまのワールド・ミュージックの現実なのだろう。
 そんな中で、ぼくらの仕事のスタンスも当然変わってくる。彼らが良いアルバムを作ってくれるのを待つというだけでは、もはや良いアルバムを配給できなくなる可能性が高い。だとしたら、これからは自給自足を目指すしかない。これまで以上に自社制作ものを中心に頑張ってゆかないといけなくなる、ということだ。
 そう思って、早くも次の企画を練りはじいるのだが、いつも書いているように、編集アルバムや新録アルバムのアイディアはいくらでも思いつくものの、これは売れそうだという企画がひとつも浮かんでこないから、困ってしまう。ぼくだけの会社だったら、そんな売れないアルバムばかり連発しても、なんとかなる。でも、一緒にやってくれている社員たちのことを思うと、あまり無謀なアルバムばかりを作るわけにはゆかい(でも、おかげで独りよがりの仕事にならないで済んでいるという部分もある)。さて、どうしたものか。月末の経理仕事が終わった後の週末にでも、またゆっくり考えることにしよう。

 

3月27日(火)

 朝早く起きて解説原稿を執筆。やっと午後になってライス盤の解説原稿を1本入稿することができた。それから明日のリスト原稿の準備と、仕事は続く。今日も一日中パソコンに向かって過ごす一日。月末は、いつもなんだか忙しく時間が過ぎてゆく。

 

3月26日(月)

 朝早く事務所に行って、会計関係の仕事を片付けた後、コンピュータの修復作業をはじめる。発売元に電話して、アレコレ試してみたら、予想したとおり、ウィルスをプロテクトするソフトが影響していたようだ。それを外してみたら、すぐに元通りになった。でも、これだけたくさんジャンク・メールが送られてくる現在、いつもこのソフトを外しっぱなしというわけにはゆかない。新しい方策を考えないといけないようだ。

 午後は自宅に戻って、解説原稿書きの準備。でも、パソコンの修復ですっかり疲れてしまったのか、なかなか仕事が進まない。明日の朝には仕上げたいところだが。

 

3月25日(日)

 いつもの日曜日と同様、朝から自宅で資料整理などの仕事をしていたら、突然インターネットが繋がらなくなってしまった。わかる限りの修復作業を試みてみたのだが、どうしても直らない。ひょっとしてケーブルが悪くなってしまったのかと思い、新しいケーブルに取り替えてみたけど、結果は同じ。いったいどうしてしまったのだろう。

 日曜日ということで、発売元に電話して聞いてみるわけにもゆかず、とりあえずインターネットを使う仕事は諦めて、資料整理に没頭する。ただ、何かわからないことがあったときに、すぐに検索できないのはストレスがたまるものだ。ネットなんてものがなかった時代は、これが当たり前だったはずだが、すっかり新しい生活に慣れてしまったということだろう。
 それじゃいけない、ということで、夕方からは気分を一新して、自宅の書庫をじっくり整理することにした。ぼくの原点はインターネットではなく、こちらにあったはずだ。最近はすっかり本棚を見なくなってしまい、整理が行き届いていないのが気になっていたが、これで全部を整理しようという気になった。どの文献も、せめてすぐに取り出せるようにしておかないと。

 

3月24日(土)

 午前中は税理士さんと打ち合わせ。その後、月末の支払いの準備をして、午後は自宅でサンプル盤の整理とメールの送信。本来は休みの土曜日だが、今日も仕事をしながらアッという間に終わってしまった。
 たったひとつ、休みらしかったのは、夜にサッカーの日本代表の試合を見れたこと。ただ、朝からの経理仕事で疲れていたせいか、前半はうたた寝状態。ほとんど内容を覚えていない。後半に点が入ったところだけは、しっかり見れたのだが…。

 

3月23日(金)

 朝から会社に行って、ひたすら帳簿の整理。2月に決算が終わった後、これ以上数字を見るのもイヤだという気分になってしまったので、今月は経理関係の仕事を思い切りサボッていた。おかげで、今日一日で一か月分の帳簿をつけるハメに…。そんなわけで、今日はいつも以上に悪戦苦闘だ。夜にはサンビーニャのイヴェントがあって、顔を出そうと思っていたのだが、とてもそれに行ける時間には終わらなかった。
 ただ、帳簿仕事は原稿書きと違って、音楽をかけながらでもできる。しかも事務所にちょうど届いたギリシャ音楽のサンプル盤がどれもすばらしい内容だったので、今日はイヤな仕事も楽しくこなすことができた。中でもじっくり聞き込んでしまったのが、SP時代のレンベーティカの豪華3枚組ボックス・アルバム。最初の1枚がイスタンブールとズミルナにおける1922年以前の録音で、2枚めがアテネ、3枚めがニューヨークにおけるそれ以後の録音という編集だが、すばらしい音源のオンパレード。すっかり聞き込んでしまった。音質も良好で、ブックレットには貴重な写真が満載。この時代のギリシャ音楽をコンパクトに聞きたい人にはうってつけのアルバム、という感じだ。
 まあ、コンパクトと言っても、CD3枚組だし、普通の人からしたら少しもコンパクトではないかもしれない。たぶん、普通に発売したら20組と売れないアルバムだろう。さて、それをどうしたらもっと多くの人に聞いてもらえるのだろうか…。この週末にでも、もう一度聞きながら、じっくり考えることにしよう。

 

3月22日(木)

 『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』の完成品が昨日出来上がってきたようだ。さっそく今日自宅に持ち帰って、フレッシュな気持ちで封を切ってみた。
 解説を読み返してみて、思い出したことがいくつか。書き忘れた、というわけではないが、いつか書いておこうと思ったことがあったので、忘れないうちにここで触れておくことにしよう。
 まずは音の問題。今回のアルバムは、ほぼ録音年代順に曲目を並べているのだが、不思議なことに前半のほうが音が良く、後半のゆくほどあまり良くない。聞かれた方は、まずそれを不思議に思うことだろう。でも、これは元のSPの音の状態の差がそのまま出たのであって、ぼくらがわざとこうしたわけではない。後半に関しては、これ以上の改善は望めなかった。
 ブラジル音楽のSPを集めている人なんて、日本ではほとんどいないだろうから、一般的には知られていないと思うが、ブラジルのレーベルの歴史は40年代から大きく変わっている。30年代のサンバの黄金期はヴィトル(ヴィクター)とオデオンが覇権を競い合い、それにコルンビア(コロンビア)が加わるくらいで、全部外資系の会社だった。でも、40年代になるとそこに国内資本系の会社が加わる。まず登場したのが、30年代に低調だったコルンビアを買い取ったコンチネンタルだ。さらにトダメリカやコパカバーナ、ちょっと遅れてシンテルなどの国内資本の会社が参入し、レコード会社の数はいきなり多くなった。
 そんな新しいレーベルで録音の機会を得るようになったのが、プレ・ボサ・ノーヴァの時代に活躍した人たち。だから、ボサ・ノーヴァは、そういった新しい国内資本系の会社のおかげで生まれた音楽だったと言っても間違いない。このアルバムに収録した中でも、アンジョス・ド・インフェルノ以後、オス・ナモラードス・ダ・ルア、オス・カリオーカス、そしてジョアン・ジルベルトが参加したガロートス・ダ・ルアなどは、みんな国内資本系の会社の専属。ディック・ファーニーやルシオ・アルヴィスも同様だ。要するに、8曲め以後はすべてそんな新しいレーベルに残された音源だったことになる。
 音がイマイチに感じられるのは、実はそんな国内資本系の会社の音源だ。これらには、元の録音自体があまり良くないものもあるし、盤の材質に問題があったのか、新品同様のSPでも音が悪いときがある。同時代の外資系会社に残された音源と比べると、その音質は圧倒的に違う。さらに、収録された音楽のスタイルの問題もある。というのも、こういった国内資本系会社は、外資系とは違って、ハッキリと大衆路線をネラッた作品が多かったからだ。おそらく、店頭における値段も安かったのではないだろうか。
 そしてこれもそんな大衆路線の音楽だったせいだろうか、これらのSPは中古盤で見つけても、鉄バリで何度も聞かれてしまった状態の悪いSPしか出てこない場合が多い。大衆路線の音楽の古レコードは、どのジャンルでも同じだ。レコードを大事に扱うインテリやお金持ちたちが聞いたSPではなく、本当に庶民によって聞かれたSPだったのだ。要するに、当時のヴォーカル・グループなんて、あまりに下品で大衆的で、インテリたちにはとても聞けるものではなかったということだろう。これらの音源がいまやどこでも復刻されず、忘れ去られてしまったのは、そんな純粋に大衆のための音楽だったからだ。
 要するに、このアルバムの後半の音の悪さは、それらの音楽の大衆音楽としての純度の高さを物語っている。純粋に大衆的な音楽のSPは、こういうものなのだ。こんなことをぼくが書くと、まるで開き直っているように思われそうだが、本当の話だから仕方がない。
 ちなみに、これは解説でも書いたが、ジョアン・ジルベルトの偉いところは、そんな純度の高い大衆音楽としてのサンバを、たった一人で現在まで受け継いできたところにある。それを知れるところが、このアルバムの最大の魅力だ。だから、多少音が悪くても我慢して聞いてもらうしかないということです。ご理解お願いしますね。

 それともうひとつ、アルバムを作りながら気になった、というか、出来たらこうしてみたかったと思ったことがひとつ。それは、もしも機会があったら、これらの曲をジョアン・ジルベルトがどのようにして知ったのか、やっぱり本人に聞いてみたかった。ご存知のように、ジョアン・ジルベルトはいまではインタビューなんてまったく受け付けないし、リオにおいてもほとんど家から出ない生活を送っているようだから、会うことすら不可能だろう。でも、元気なうちにその音楽キャリアについて、自分で語った本を作ってもらいたいとつくづく思う。そんな本ならぼくは絶対に読んでみたい。
 ぼくが特に知りたいのが、1949年にリオにやってきた後、56年に雲隠れしてしまう前までの7年間についてだ。バイーアの田舎町でレコードだけを頼りにサンバを聞いてきたジョアンにとって、49年にはじめてやってきたリオは、予想した以上に刺激的な場所だったことだろう。その中でジョアンは、どんな音楽に出会い、どんなことを考えたのだろうか。
 いま唯一わかっているのが、解説でも書いたように、ジェラルド・ペレイラのことだ。ジョアン・ジルベルトはわざわざヤクザものがはびこる地区であるラパに出向いて、ジェラルド・ペレイラと会見した、という話だけは、ジョアン自身が60年代に語っている。でも、ジョアンが自分の口から語ってくれたのは、そんなペレイラのことだけ。ジャネー・ジ・アルメイダについても、ジョアン・ドナートについても、まったく語られていない。ガロートス・ダ・ルア在籍時はしょっちゅう仕事をサボッていたというジョアンだが、そうして作り出した時間には、いったい何をやっていたのか。ぼくはどうしても知りたいと思う。
 ちなみにジョアンがリオにやってきた49年頃は、いま書いた国内資本系会社が次々と創設された時代。それから56年までは、そんな新しい会社の出現のおかげで、ブラジル音楽シーンを大きく塗り替えようとしていた時期でもあった。きっとジョアンも、この時代に音の悪いSPをたっぷり聞きながら、音楽シーンの躍動をしっかり実感していたに違いない。そんな時代を、音まで含めて追体験できるのが、このアルバムだということです。

 

3月21日(水)

 先に発売した『グナーワ・ホーム・ソングス』の評判が思った以上に良いようだ。お店からいただいたバック注文の数が予想以上だったようで、今日は在庫がゼロになってしまった(と言っても、もともと大した数の在庫を持っていたわけではないが)。あまり売り上げを期待していなかったアルバムだけに、こういう意外な展開になって嬉しい限りだ。
 この日記でも書いた記憶があるが、ぼくはこのアルバムが大好き。今年ライスで発売した中では『アルジェリア音楽集大成』と並んで、もっともすばらしい内容だと思っている(ティナリウェンは昨年夏頃からミックス直後の音源を何度も聞いてきたので、個人的には新譜という感じがしない)。ともに内容は地味。他の会社ならわざわざ日本発売することはなかっただろうが、それを出してしまうのがライスらしさ、というか、本当の意味でクォリティの高い音楽をコツコツとリリースしてゆくのがわが社の務めなのだろう。
 ただ、そうは言っても、こういうアルバムばかりがお店に並んでしまったら、コーナーは思い切り地味に見えてしまう。それじゃ新しいファンが寄りつかないよと言われたら、その通りかもしれない。『アルジェリア音楽集大成』も『グナーワ・ホーム・ソングス』も、これまでこういった音楽をじっくり聞いてきてこそそのすばらしさがわかるタイプのアルバムであって、そういう意味ではかなりの上級篇だ。せっかくそんなアルバムを出しても、お店の人が新しいファンの皆さんにお勧めしにくい、という気持ちはわかる。ワールド・ミュージックに関しては、上級者と入門者との間のギャップがあまりに大きいので、どうしてもこういう問題が起きてしまうのだ。
 なので、そんなギャップを埋めてゆく作業こそが、いま求められていると思うのだが、さあて、いったいどうしたものか。アラブ音楽全般に関する本とか、代表的な音源を集めた編集アルバムとかを、誰かが出してゆく必要があるのだろうが、世間でそんな動きがあるとは思えない。まあ、他の人の仕事を期待しても仕方はないので、ぼくらが(本はともかく)CDを作ってゆくしかないのだろう。どこかで時間を見つけて、そんなアルバムについてじっくり考えてみたいところだ。

 

3月20日(火)

 通常、休みの日に食料の買出しをするのだが、昨日は外出したせいでそれができなかった。そこで今日は、朝早く起きて仕事を一段落させて、午前中に買出しに出かけることに。せっかくだから春らしいものを食べたいと思ってスーパーを覗いてみたが、冬にもゴーヤなんかが売られているご時勢だから、決定的に春らしいものを探すのは難しい。なんだか、ちょっとさびしい気分になった。
 そして午後からまた仕事。明日のリストに向けて調べないといけないことが山ほどある。ここのところ、また完全休養日がない生活に戻ってしまったようだ。

 

3月19日(月)

 ここのところ週末はいつも仕事。さすがに疲れがたまってきたので、今日は午前中だけ自宅で仕事をして、午後は休ませてもらうことにした。と言っても、自宅でゆっくりというわけにはゆかない。お彼岸なので、父親の墓参りをしておかないと。暑さ寒さも彼岸までというが、今年もまさにそんな感じ。今日あたりからすっかり春らしい陽気になってきた。

 

3月18日(日)

 今日も朝からひたすらサンプル・チェック。そしてデータの整理。毎日同じ仕事ばかりしているせいで、だんだん気が滅入ってきた。

 

3月17日(土)

 今日も終日、自宅でサンプル・チェック。そして今日から、ブラジル盤のデータ整理もはじめた。
 ご存知の方も多いと思うが、サンビーニャは会社をはじめてから今日まで、ずっとブラジル盤の輸入をやっている。いまお店に並んでいるブラジル盤も、そのかなりの部分は当社が輸入していることになるのだろう。ただ、そんな仕事を10年近くもやっていると、データがかなりいい加減になってくる。価格のバラつきもあるし(そのときのドルの相場で卸価格が変わるときがある)、すでに廃盤になったアルバム、あるいは違う番号で出直しになったアイテムもたくさんある。今回、ブラジルの取引先レーベルを整理するついでに、それらのCDデータも全部整理して、よりしっかりした資料を作ろうと思いはじめたわけだ。
 ただし、これまたご存知のように、ブラジル盤のアイテムは限りなく多い。近年はインディ・レーベルも増えているので、なおさらだ。なので、すべてのデータを整理するまでに3ヶ月くらいはかかるかもしれない。ただ、相手がポルトガル語。こればかりは他の人に任すわけにはゆかないので、自分で全部やるしかないのだろう。まあ、勉強になるといえば、確かに勉強になる仕事ではあるのだが…。

 

3月16日(金)

 終日、自宅でサンプル・チェック。せっかくの休みにまったく外出できないのがツラい。

 

3月15日(木)

 午前中にリスト原稿を完成。午後は事務所に行って、全体のリストをチェック。今週は情報量豊富なリストになったようだ。まあ、だからと言って、たくさん注文がもらえるわけではないが。

 夕方は新宿でプロモーターの方々と打ち合わせ。仕事は早々に終わったので近くの焼き鳥屋で飲むことになったのだが、久しぶりに焼酎を飲んだせいか、今日は珍しくちょっと酔っ払ってしまった。

 

3月14日(水)

 午前中はサンプル・チェックの続き。午後は明日のリストの準備のため、いつも通りブラジル音楽の新譜をチェックした。さすがにカーニヴァルも終わったこの時期になると新作の発売が増える。おかげでリストはパンパンだ。チェックのしがいがあるというものだ。
 そうそう、新譜と言えば、お正月にポルトガル語で解説を書いたサンバ・アルバム、そろそろブラジルで発売になる模様だ。今回のシリーズは全部で7枚だが、一度に全部出すのかと思っていたら、とりあえず3枚、そしてその後に4枚、という出し方になるらしい。そうと知っていれば、あれほど集中して解説原稿を書かなくても良かったわけだが、でも集中してやっていなかったら、いまだに終わっていない、なんてこともありえるので、お正月中にやってしまって正解だったのかもしれない。どんな仕上がりになるか、いまから楽しみだ。

 そんなブラジルで発売されるアルバムの中から、ウィルソン・モレイラの1枚めだけ、輸入盤解説付きの国内盤仕様という形で日本でも配給させていただくことにした。他のアルバムはすでにライスから1900円シリーズで発売されているが、ウィルソンの一枚めだけが、当時マスターを一度紛失してしまったせいで、CD化していなかった。そのマスターをクァルッピの倉庫から発見したのが、昨年のこと。ちょうどそのすぐ後くらいにブラジル発売が決定したので、それならわざわざ日本でもプレスするより、ブラジル盤の配給させてもらったほうがいいだろう、ということになった次第だ。1986年、ぼくがブラジルではじめてプロデュースしたアルバムのうちのひとつ。ラファエール・ラベーロやマルサール、シキーニョなど、いまや故人となった名手たちがこぞって参加した豪華な内容だ。サンバに関心のある方は、発売されたときはぜひ聞いていただきたい。内容的にも、いまではもう到底作りえないレベルのサンバ・アルバムだと思う。発売は4月15日の予定です。 午前中はサンプル・チェックの続き。午後は明日のリストの準備のため、いつも通りブラジル音楽の新譜をチェックした。さすがにカーニヴァルも終わったこの時期になると新作の発売が増える。おかげでリストはパンパンだ。チェックのしがいがあるというものだ。
 そうそう、新譜と言えば、お正月にポルトガル語で解説を書いたサンバ・アルバム、そろそろブラジルで発売になる模様だ。今回のシリーズは全部で7枚だが、一度に全部出すのかと思っていたら、とりあえず3枚、そしてその後に4枚、という出し方になるらしい。そうと知っていれば、あれほど集中して解説原稿を書かなくても良かったわけだが、でも集中してやっていなかったら、いまだに終わっていない、なんてこともありえるので、お正月中にやってしまって正解だったのかもしれない。どんな仕上がりになるか、いまから楽しみだ。
 そんなブラジルで発売されるアルバムの中から、ウィルソン・モレイラの1枚めだけ、輸入盤解説付きの国内盤仕様という形で日本でも配給させていただくことにした。他のアルバムはすでにライスから1900円シリーズで発売されているが、ウィルソンの一枚めだけが、当時マスターを一度紛失してしまったせいで、CD化していなかった。そのマスターをクァルッピの倉庫から発見したのが、昨年のこと。ちょうどそのすぐ後くらいにブラジル発売が決定したので、それならわざわざ日本でもプレスするより、ブラジル盤の配給させてもらったほうがいいだろう、ということになった次第だ。1986年、ぼくがブラジルではじめてプロデュースしたアルバムのうちのひとつ。ラファエール・ラベーロやマルサール、シキーニョなど、いまや故人となった名手たちがこぞって参加した豪華な内容だ。サンバに関心のある方は、発売されたときはぜひ聞いていただきたい。内容的にも、いまではもう到底作りえないレベルのサンバ・アルバムだと思う。発売は4月15日の予定です。

 

3月13日(火)

 朝早く起きて、ひたすらサンプル盤のチェック。そしてメール送信。終わったら、もう午後8時。今日は12時間以上、こんな作業を繰り返していたことになる。さすがに疲れました。

 

3月12日(月)

 週末も仕事をしたので、今日は午前中に仕事の割り振りを決めるだけで、お昼過ぎの打ち合わせが終わった後は休ませてもらった。まだ風邪が治りきっていないのか、身体がダルい。本当なら3連休くらい取りたいところだが。

 

3月11日(日)

一日中、自宅でサンプル・チェック。本当はあるコンサートを見に行く予定だったのだが、いまいち風邪気味な状態が続いているので、お休みにさせてもらった。おかげでサンプルのチェックは進んだが、それでも今日までにチェックできたのは全体の3分の1ほど。まだまだ先は遠い。この調子だと、全部チェックし終わるのは、やはりあと一週間くらいかかりそうだ。

 

3月10日(土)

 午前中は部屋整理の続き。ジョアン・ジルベルト関係の解説原稿を書くために引っ張りだした資料はちゃんと元に戻したのだが、その下から出てきたCDやブラジルでもらったサンプル盤やらがやたらと多かったので、整理に手間取った。これらはただ棚にしまうだけでなく、ちゃんと聞いてから整理しないといけない。それが思った以上に膨大は量で、とても1日くらいでは終わりそうもない感じだ。午後はちょっとだけスタジオに寄ってジョアン・ジルベルトのマスタリングを聞いたが、その後はまた自宅に戻って整理作業に。この調子だと、来週一杯はそんなサンプル盤の整理に追われてしまうのかも。

 今日聞いた中で、ブラジルでもらったCDで特に感慨深かったアルバムが2種あった。ともに非売品として作られたもの。売り物ではないので、当社で日本配給というわけにはゆかないが、それでもどこにも紹介しないというのも可愛そうなくらいすばらしい内容なので、せめて日記にでも書いておこうと思った次第。
 ひとつはタンチーニョの『緑とピンク色(マンゲイラ)の思い出』で、もうひとつが『マリオ・ラゴ、20世紀の男』。前者はタイトル通り、タンチーニョという男性歌手がマンゲイラの古い時代のサンバを歌うアルバム。なんとカルトーラの未発表曲なども登場する貴重な内容だ。また後者は、アタウルフォ・アルヴィスと一緒に「アメーリアの思い出」などを書いた名作曲家マリオ・ラゴの作品集。こちらは新旧のサンバ歌手が大量出演。信じられないくらい壮観な作りが成されている。しかも、ともにすべて新録。さらに、前者は2枚組で後者は3枚組(プラスDVD)。おまけに、すばらしく手の込んだブックレットがついているという超豪華な作りだったりするから、ますます驚かされる。
 ぼくが感慨深く思ったのは、こういったアルバムを作るためにお金を出すところが、ブラジルにはある、ということだ。もちろん日本でも、音楽振興のためにお金を出してくれる機関はあるだろうが、はたして自国の音楽に対してこれほど真摯なプロジェクトの後押しをしてくれるのだろうか。ぼくは残念ながら、そうして作られたアルバムを、日本では見たことがない。
 実はブラジルにおいて、こういう非売品のプロジェクトはいまに始まったわけではない。LP時代からずっとあった。ぼくは幸運にも、そういったレコードのいくつかを関係者たちからいただくことができたが、それだけでもけっこうタイヘンな数。きっと、作られた総数はその10倍にも及ぶことだろう。
 そうした音源を、いつの日か、今度は非売品ではなく、ちゃんとした売り物として再発してもらいたい。そう思うのは、ぼくだけじゃないはずだ。そして日本でも、どこかでお金が余っていたら、こんな仕事ができたらと思う。

 

3月9日(金)

 自社制作の編集盤を作るときは、ある限りの資料を手元において仕事をするので、部屋が本やCDで溢れてしまう。おまけに、今回はブラジルの見本市でもらったCDも手元にある状態だから、ますますヒドい混乱状態だ。これを整理しないととても次の仕事にかかる気になれない。そこで今日は朝から夕方までかけて、部屋の整理に集中。資料の山からずいぶん前にもらったサンプルが出てきたり、山の下にはいろんなものが隠れていたが、いちおう全部棚に収まって、やっとひと安心の状態だ。これでこの週末からはサンプル盤のチェックに集中できそうだ。

 この欄で報告するのを忘れていたが、今月からサンビーニャ主催のイヴェントを毎月やることになった。今月は映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』のプロモーションもかねて、トルコ音楽を特集する。詳しくはこのページを見ていただきたいが、ダンサーの方も出演して、華やかなイヴェントになりそうだ。お時間のある方は、ぜひお越しください。どうも早くいらした方には、特別なプレゼントもあるようです。
 またそのイヴェントの次回は、『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』のプロモーションを兼ねて、ブラジル特集になるのだとか。こちらも、ユニークな企画を用意しているようなので、楽しみにしていていただきたい。内容や日程が決まったら、またサイトでお知らせします。

 

3月8日(木)

 朝からリスト原稿書き。午後は事務所でそれをチェックして、昨日に続いて早めに自宅に戻った。休みなしで長い原稿を書いたせいで、ちょっと疲れがたまっている。今日も余計なことはせず、早く休ませてもらうことにしよう。

 

3月7日(水)

 『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』のブックレットを無事入稿。これで週末に色校をチェックしたら、やっとぼくの手を離れる。いつもながら、自社制作アルバムを作るときは突貫工事のように早い進行だが、他の仕事もたまっているし、仕方ないのだろう。昨日も書いたけど、じっくり練り上げた仕事にはなってはいなくても、短時間に集中してやった仕事ならではの良さはあるように思う。そう思うしかない、という状況でもあるのだが…。
 週末に原稿書きまとめてやったせいで、仕事が一区切りしたら疲れがドッと出た。明日のリスト原稿をやりたいところだったが、夕方からの仕事は休ませてもらって、早めに帰宅。早く休ませてもらうことにした。

 

3月6日(火)

 朝早く起きて、昨日書き上げた解説原稿を校正。2日間、ほとんど寝ないで書いた原稿なので、間違いは多々発見したが、それでも集中して書いた原稿ならではの良さもある。どうもぼくの場合、じっくり時間をかけて仕事をするより、締め切りに追われて書くくらいのほうが性に合っているようだ。

 午後は事務所で使う写真の割りふりを決めて、夕方は再び校正。後は昌くんにデザインをまかせて、早めに寝ることにした。明日あたりには入稿できるといいのだが。

 

3月5日(月)

 昨日に続いて解説原稿書き。夜になってやっと全部書き上げた。今回も25000字以上の長文原稿。これだと、ブックレットは28ページくらい必要になり、また経費がかさんでしまう。困ったものです…。

 

3月4日(日)

  自宅にこもって解説原稿書きに集中。日記なんて書いてる余裕はない。

 

3月3日(土)

  午前中だけ原稿書きをやって、午後は渋谷へ。蒲田耕二さんに作っていただいた『シャンソン歴史物語』のイヴェントを<国境の南>でやることなったので、ぼくもお邪魔させてもらった。イヴェントを仕切ってくださったのは北中正和さん。本当にありがたい限りです。

 本来なら蒲田さんにお話していただけば十分なのだが、蒲田さんのほうから、ぼくにも少し話してもらいたいと言われたので、少しお話させていただくついでに、レコードでかける曲目もひとつだけリクエストさせてもらった。それはエディット・ピアフの「群集」という曲。1957年という、ピアフにとっては晩年の録音なのだが、ぼくはこれを彼女の最後の名唱と思うくらい大好きで、本当なら『歴史物語』にも入れたかったのだが、保護期間の関係で果たせなかった。そこでこれを機会に他の人にも聞いていただこうと思ったのだ。
 実はこの曲は、フランス人ではなく、ペルー人の作曲。世界でワルツが発展した音楽というと、フランスのシャンソンとペルーのバルス・ペルアーノ(いわゆるクリオージョ系の音楽)を思い出すが、その2大ワルツ王国(!)の合体、しかも最高の歌手ピアフの絶唱だから、つまらないわけがない。伴奏のオーケストラも、間奏でバルス・ペルアーノ風のインスト・パートを挟み込むなど、アレンジも実に気が利いている。ピアフもそんなアレンジに応えて、スペイン語風にRを強めに巻き舌にしながら、いつも以上に粘りの効いた歌い方だ。そのリズム感のすばらしさには、ぼくも舌を巻いてしまう。これこそピアフが最後に残してくれたすばらしい<ワールド・ミュージック>(!)、なんてぼくは思っているのだが、お聞きいただいた皆さんは楽しんでいただけただろうか。
 蒲田さんもレコード・コンサートの中でお話されていたように、いわゆるフランスの<植民地ソング>には能天気なエキゾティシズムに辟易される曲も多い。ただ、それはそうだが、でもぼくはフランス人が異文化に対して常にいい加減な対応をしていたとは思っていない。少なくとも、同時代のイギリス人に比べたら、フランス人たちは常に世界の異文化と積極的に接しようとしてきた。いや、この場合はイギリス人より、同じようにアジアに植民地を持っていた日本人と比べたほうがわかりやすい。はたして戦前の日本にフランスの<植民地ソング>を超えるくらいすばらしいミックスチャー音楽があっただろうか。服部良一の「蘇州夜曲」はぼくも大好きだが、これも基本的には<植民地ソング>であって、中国の民俗音楽の要素を取り入れて作られた曲ではない。その点ではジョセフィン・ベイカーが歌った「ハイチ」と同じではないだろうか。
 植民地を持っていた時代の日本で、異文化交流が歌によって生まれた最高の例が、グサンの「ブンガワン・ソロ」が親しまれたことだった。残念ながら、クロンチョンの要素までを取り入れた録音は生まれなかったが、それでも戦後にこの曲がレコードに吹き込まれ、戦争に行った人たち以外にも親しまれたことはすごく重要だ。ピアフのこのペルー産ワルツのカヴァーも、ぼくはそれに匹敵するすばらしい異文化交流だったと思っている。ペルーはフランスの植民地ではなかったが、それでもこんな知られざる音楽をピアフが見つけて録音まで残せた(しかも最高の出来)のは、フランス人たちが常に異文化に対して好奇心を持っていたからに他ならない。

 なんて、久しぶりに日記で長い文章を書いてしまったが、実はこれは将来書くかもしれない原稿の下書きみたいなもの。ピアフのアルバムをサンビーニャで出すことがあるかどうかはわからないが、そんな機会があったら、この曲はぜひ入れたいと思う。

 レコード・コンサートの後は、蒲田さん、北中さん、そしてカメラマンの木原さんと一緒に駒形というお店でどじょうをつまみに乾杯。音楽関係者の皆さんとお酒を飲むのは久しぶりなので、すっかり盛り上がってしまった。ただ、ぼく以上に上機嫌だったのは、本日のメイン・ゲストである蒲田さん。木原さんがそのお姿を写真に撮ってくれたので、お見せすることにしましょう。Vサインを出しているのが蒲田さんで、左が北中さん、右がぼくです。


 

3月2日(金)

 自宅で解説原稿の準備。関係する本やレコードなどの資料を全部引っ張り出して、アレコレとチェック。また部屋が資料でいっぱいになってしまった。

 

3月1日(木)

 リスト作成日。ライスなどのページは社員たちにまかせて、ぼくはブラジル盤のリストに集中。時間はかかったが、なんとか重要なアルバムだけは紹介できた。

 夕方から都内で打ち合わせ。日本インドネシア協会の方々と、インドネシアと日本の正式な国交が成立して50年を迎えるという来年の記念行事について話し合う。ぼくが参加させていただいたのは、もちろんひとつでも音楽関係のプログラムを組めたらと思ったから。いくつかアイディアを出させてもらったが、何かひとつでも実現してくれたらありがたい。


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