2月28日(水) 決算がやっと終わったと思ったら、今日は支払日。また月末の経理仕事がはじまった。2月は海外出張に出ていた以外、日本にいる間はずっと経理仕事に追われていたような気も。毎年のこととは言え、ちょっとウンザリだ。 夕方から、明日のリストのためのサイト・チェック。今週からブラジル音楽の新譜の情報収集をぼくが全部することになったので、チェックしないといけないサイトが増えた。ただ困ったのは、新聞のサイトなどをチェックしていると、仕事とは関係のないページも気になって読みはじめたりしてしまうことだ。ブラジルのサッカーの試合の結果なんて、音楽とはまったく関係ないのだが、ついつい知りたくなってしまう…。結局、なんとか全部チェックしたのは夜11時過ぎ。この調子だと、これからはリスト作りにこれまで以上に時間がかかってしまいそうだ。余計なページはくれぐれも見ないようにしないと。 深夜にジョアン・ジルベルトの最初の3枚のアルバムを久しぶりにオリジナルLPでじっくり聞く。1枚のCDにまとめたアルバムも以前出ていたが、音の違いは歴然。さすがにこの時代のアナログ盤はすばらしく良い音だ。ご存知のように、これらのアルバムはまだオリジナル盤と同じスタイルではCD化されたことがない。もしもCD化されるときには、ぜひオリジナルの音を再現してもらいたいと思う。 |
2月27日(火) 午前中に税理士さんと打ち合わせ。税務署に提出する書類のすべてに目を通して、やっと決算が終わった。これで税金を払ったら、本当にすべておしまいだ。ただ、消費税の金額が想像したより少ないと思って喜んでいたら、今年は在庫がたくさんできてしまったためと知ってガッカリ。困ったものです…。 午後は自宅に戻って、ふたたび解説原稿書き。ジョアン・ジルベルトのサンバ・アルバムは、選曲は終わったものの、解説はまだ手をつけていない。これから週末にかけて頑張らないと。今回も書きたいことがたくさんあるので、いつも通り長い原稿になりそうです。 |
2月26日(月) 昨日休んだおかげで、ずいぶん体調が戻ってきた。そこで今日は少し力を入れて仕事に取り組むことに。午前中に会社関係の仕事を少し。午後は自宅にこもって、ブラジルでもらったサンプル盤などをチェック。 ぼくがブラジルで作ってきたアルバムが再発されることはすでに何度か書いた。ポルトガル語の解説原稿も、苦労しながら1月中に書き終えたのだが、その校正をいま頃になって送ってきたのでビックリ。しかも、さらにいまになって収録された楽曲のうち、出版社がわからないものがある、なんてことを言っているから、カチンときた。そんなこと、とっくに調べ終わっていると思ったからだ。この調子だと、発売はいったいいつになることやら。ブラジルらしいといえば、それまでだが…。 |
2月25日(日) 帰国して一週間以上たつのに、まだ風邪が治らない。そこで今日は思い切って完全休養を取ることにした。食材は昨日買い込んでいるので、外に出る必要はない。一日中自宅でボケッと過ごすなんて、本当に久しぶりだ。 |
2月24日(土) ジョアン・ジルベルトのアルバムに収録する楽曲の音源チェック。SP時代の音源を使っているので、どうしても音にバラつきがある。同じ曲でも、いくつかある音源からじっくりチェックして良いものを選び出さないといけないので、けっこう手間がかかる作業だ。ただ、この音源しかない、という状況で盤の状態が悪い音源を四苦八苦しながらマスタリングするのに比べたら、選択の余地があるのは良いことなのだろう。おかげで今回はいつも以上に良い音でお届けできそうな気がする。ファンの皆さんはどうぞ楽しみにしていてください。 |
2月23日(金)
『朝日新聞』の夕刊を見たら、<今月の10枚>のコーナーでティナリウェンの新作が紹介されていた。ピーター・バラカンさんが押してくれたのだろうか。いずれにしても、ありがたい限りです。 |
2月22日(木)
ティナリウェンの新作に関する雑誌などのレビューがだいたい出揃ったので、まとめてチェック。どこでもかなり評判が良いようで、安心させられた。内容がすばらしいことはわかっていても、どう評価されるかは、人によって基準が違うのでわからない。これだけ評判が良いということは、誰が聞いてもすばらしいCDだということだろう。ぼくらもより一層頑張って、もっと多くの人に紹介するよう務めないと…。明日からプロモート、もう一度力を入れて頑張ることにしよう。 |
2月21日(水) |
2月20日(火) |
2月19日(月) ちょうど2週間ぶりの出社。予想した通り、机には郵送物やインヴォイスなどが山のように積まれていた。旅行の後は、いつもこの山を片づけるところから仕事がはじまるわけだが、それでもずいぶん楽に感じられたのは、取引先から送られてくるサンプル盤をいまは社員たちが聞いておいてくれているからだろう。手紙やインヴォイスの山は仕方ないが、CDの山だけはウンザリする。そうじゃなくても、ブラジルから大量に持ち帰ったサンプルが目の前に山になっているので…。 風邪が流行っているようで、社員の昌くんはかなりヒドい状態のようだ。ぼくのほうも昨日よりさらにツラい。これじゃアタマを使う仕事はちょっと無理だろう。こういうときは音楽を聞いても楽しくない。皆さんも風邪にはくれぐれも気をつけてくださいね。 |
2月18日(日) 昨日、寝て過ごしたせいで、ずいぶん疲れが取れた。ただ、ちょっと風邪気味。満員の飛行機に乗ると、いつも風邪を移されてしまうが、今日もそんな感じだ。普段、満員電車とかにまったく乗らないので、免疫がないということなのだろう。 でも、2週間の旅行のおかげで仕事がたまっている。今日から自分の仕事だけでもはじめておかないと。そこでまず手をつけたのが、自社制作盤の選曲作業だ。ブラジルにいても、時間を見つけながら進めていた仕事だが、今日あれこれ音源をチェックして、だいたいの流れを決めることができた。後は細かい修正作業と、良好な音源を探すだけだ。そうそう、解説原稿もまだまったく手付かずの状態。ただ、こちらは選曲さえ決まれば、すぐに書ける。来週の週末あたりに一気に書き上げることになるだろう。 10日間ほど、ほぼポルトガル語だけで生活していたせいか、今日は日本語よりポルトガル語の文献のほうがスイスイとアタマに入ってくるような気がする。まあ、気がするだけで、実際はそんなことはないのだろうが、いまのように1年に10日ほどではなく、せめて2〜3ヶ月くらいポルトガル語で生活できたら、ぼくのポルトガル語ももっと上手くなるのかもしれない。ぼくの場合、もう40代後半になっているのに、言葉の学習能力に関してだけはまったく衰えを感じない。まだアタマが柔軟性を保っているようだ。そんないまのうちに、もっともっと言葉の勉強をできたら良いのだが。 |
2月17日(土) ひたすら休養の一日。昼間に寝てしまうと時差ぼけから抜け出せないことはわかっているのだが、どうしても睡魔から逃れられない。よほど疲れているのだろう。昨晩もしっかり寝たのに、昼間も爆睡。一日中、ほとんどパジャマのまま過ごした。 |
2月16日(金)
夕方5時半に成田に到着。13時間のフライトですっかり疲れはてているのに、預けた荷物が二つとも届いていないことを知ってガッカリ。航空会社に送ってもらう手続きをするだけで、さらに1時間も要してしまった。そんなわけで、帰宅は9時過ぎ。こんなに疲れて帰宅したのは本当に久しぶりだ。食事もろくに取らず、お風呂にはいっただけで就寝。 |
2月15日(木) ブラジル時間の夜8時半にリオを出発。サンパウロを経由してニューヨークに到着したのは早朝だった。なんでもニューヨークは昨日大雪にみまわれ、空港は閉鎖。すべてのフライトがキャンセルされたのだとか。ぼくらが到着した時点でも、ニューヨークは一面の銀世界。それでも天気は回復していたので、なんとか着陸できることになったらしい。 ただ、そこからが大変だ。空港を閉鎖した余波が出たのか、成田に向かう飛行機の出発時間がなかなか決まらない。結局、飛び立つことは飛び立ったが、2時間以上の遅れで、ニューヨークでは6時間近く待たされたことになる。おかげですっかり腹ペコになってしまった。 そうして乗り込んだ飛行機では、ブラジルからの出稼ぎの日系青年と同席。しばしポルトガル語で会話することになった。最近はサンパウロに行くことがなくなってしまったので、日系ブラジル人の人と話すのはものすごく久しぶりだ。なんでも、もう10年以上も出稼ぎで生活しているのだそうだが、それでもまったく日本語を話せないところに、日本に馴染めない彼の状況が見える。日本生まれの日本人とこれほどゆっくり話しをしたのは、生まれてはじめてだと、しきりに感動していた。 ちなみに彼の日本名は長嶋茂雄。お父さんが野球のファンだったのだそうだ。この名前は、ちょっと忘れられそうもない。 |
2月14日(水) さあ、いよいよブラジル出張も今日で終わり。夜の便で帰国になる。ただ、いつものことだが、最終日はすごく慌しい。今日もそんな感じ。午前中には昨日の取材の続き(写真撮影だけだったが)をこなして、午後は昨日知り合ったアルフレッドくんも出演している『ササリカンド』というコンサートを市内の劇場でみた。 『ササリカンド』は、ブラジルのカーニヴァルを代表する音楽であるマルシャの名曲を紹介するプロジェクト。30〜40年代を中心にしたマルシャの名曲を、音楽研究家のセルジオ・カブラールらが選び、テーマごとにメドレーに仕立てて、その音楽の奥深さを知ってもらおうという企画だ。アルバムはビスコイト・フィノから出ているが、このレーベルの日本での配給元は当社ではないので、ぼくは聞いていない。この公演ではじめてその内容を知って、とても楽しませてもらった。 マルシャの奥深さを探る、と言っても、けっして堅苦しい内容ではない。男女3人ずつの歌手たちが、まるで役者さんのように楽しい振り付けをしながら、ソロで、あるいはコーラスで次々と名曲を歌い飛ばしてゆく。見ているお客さんは、マルシャの黄金期を知る年長の方が中心だったが、同時に子供たちも多く、大きく離れた両世代が一緒に楽しんでいるところが、妙に新鮮だ。考えてみれば、マルシャにはドロドロの恋の歌なんてのはなく、コミックな曲が多いので、子供たちにも十分に楽しめる。ぼくらが普通に考えるレコード購買層と、ここまでまったく違うところを狙った企画というのも珍しいかもしれない。 公演終了後は出演していたアルフレッドくんたちと昼食。そのままホテルに残していた荷物をピックアップして空港に向かった。さあ、これから27時間の空の旅だ。 |
2月13日(火) 今回のブラジル旅行の大きな目的のひとつに、ブラジルでリイシューされるぼくのサンバ・アルバムのプロモートがあった。新聞などのインタビューを受けて、発売もとの宣伝に協力しようというもくろみだ。今日がその取材日。日刊紙のフォーリャ・ジ・サンパウロなど、いくつかの取材を受けた。 ブラジルでの取材は、はじめてアルバムを作った20年前から何度もこなしてきたが、今日取材を受けて思ったのは、当初よりも最近のほうがちゃんとアルバムを聞いてから取材する人が増えている、ということだ。最初は、サンバを好きな珍しい日本人がいる、という程度の記事だったが、今回の質問の様子だと、かなり音楽的について突っ込んだ記事を書きたいと考えていることが伺える。ぼくが書いたライナーノウツもちゃんと読んでくれているし、まずまずやりやすいインタビューだった。 夜はベト・カゼスくんの自宅で送別会。彼は歓迎会もやってくれたのに、本当に申し訳ない気分だ。でも、1年に1度くらいしかブラジルに行かないので、なかなか友人たちと会う機会がないが、それだけにこうして友人たちを集めて会をやってくれるとありがたい。今日はテープを貸してあげたアルフレッド・デル・ペーニョくんもやってきたので、夜遅くまで音楽のことをあれこれ話し込んでしまった。 |
2月12日(月) 朝早く起きて、いつも通りの散歩。レシーフェのボア・ヴィアージェン海岸も良かったが、それとくらべてもコパカバーナ海岸はすばらしいと実感した。ボア・ヴィアージェンから見える大西洋も美しいが、それ以上にグァナバーラ湾の島々を含む海岸線は絶景だ。ただ今日は曇り空で、あまりハッキリとは見えなかったが。 午前中はライスの解説原稿を1本執筆。ちょっと難航したが、午後1時にはなんとか書き上げることができた。こうして一日中ポルトガル語ばかりを話していると、日本語の原稿を書こうとおもっても、ペースをつかむまで時間がかかる。きっと日本語とポルトガル語ではリズムがまったく違うせいなのだろう。ブラジルの友人たちの話によると、ぼくがポルトガル語を話すときにはスウィングしているが、日本語ではすごくノッペリ聞こえるらしい。今日書いた原稿がノッペリした文章になっていなければいいのだが…。 午後はいくつかのレコード会社と打ち合わせ。企業秘密なので詳しくは書けないが、レシーフェ以上にこちらでの会見のほうが面白そうな企画が多かった。具体的な仕事になるまでにはちょっと時間がかかりそうだが、今年中くらいには今日の打ち合わせの成果をお見せすることができるかもしれない。 夜は早めにホテルに帰って、持ってきた本をちょっと読んでから就寝。そろそろ日本語のペースを取り戻してゆかないと。 |
2月11日(日) 今日はレシーフェからリオへの移動日。でも、午後の便を予約してもらったので、朝はゆっくりだ。ボア・ヴィアージェン海岸をゆっくり散歩できるのも今日が最後。なので、いつも以上に時間をかけて波打ち際を歩いた。ちょっと起きるのが遅かったので、今日はいつも以上に日差しが強い。ホテルに帰って鏡を見たら、顔が日焼けして赤くなっていた。このあとはきっと黒くなるのだろう。日本に帰ったら、毎日海水浴をしてきたように見えるかもしれない。 今日やるべきことはひとつ。せっかく招待してくれたヴィゾン社のカルローンさんに挨拶することだ。ちょうど散歩から帰ってきたところで彼がロビーにいたので、丁重にお礼をして別れた。カルローン自身は、見本市全体の仕切りの仕事に忙しく、仕事の話はまるでできなかったらしい。もしもこの後リオで時間が取れたら、自分のレーベルの最近の仕事についても話をしたいと言っていた。なんとか時間を作ることにしよう。 午後2時の便でリオへ。リオとレシーフェとでは1時間の時差があるので、到着したのはもう夜7時(ただし、まだ明るい)。それからタクシーに乗ってコパカバーナのホテルに向かう。今日はフラメンゴとボタフォーゴの試合がマラカナン競技場であるので、レボーサスのトンネルは渋滞があるかもしれない。そこで海岸沿いを通ってコパカバーナへ。タクシーの中で聞いたラジオ中継では1対1だったが、荷を降ろしてテレビを見たら3対3になっていた。ホテルのボーイくんの話によると、手に汗握るすばらしい熱戦だったようだ。 夜はエンリッキ・カゼスがホテルにやってきてくれたので、夕食がてら、ボタフォーゴのお気に入りのレストラン<マノーロ>へ。エンリッキがこの近くに住んでいた時期によく来たレストランだ。生ビールも美味しいし、外に飛び出したベランダの雰囲気も良い。リオでももっとも落ち着くお店のひとつかもしれない。 それにしても、エンリッキと二人っきりで音楽の話をするのも久しぶり。最近は会ってもあまり音楽の話をしなかった彼だが、今日は将来の仕事についていろいろ話してきた。というのも、彼はこれまで以上に海外進出を考えているらしく、ショーロをどのように海外(特にヨーロッパ)で売り出せるか、ぼくに聞きたかったらしい。たしかに何年も毎年ヨーロッパの音楽関係者とつきあっているので、ぼくには多少のコネクションがある。思えば、ピシンギーニャやドンガがオス・オイト・バトゥータス名義でパリに行きロングラン公演をしたのは1922年。それ以来、ショーロの大きな公演がヨーロッパで行われたことはほとんどない。そろそろ何か大きなプロジェクトを考えても良い時期なのかもしれない。 |
2月10日(土)
忙しかった打ち合わせは昨日まで。今日はレシーフェにおける唯一の休養日だ。もちろん、怒涛の打ち合わせがないだけで、この日にゆっくり会いたいという会社はいくつかあった。ただ、それらの仕事は午前中にホテルで済ませて、午後くらいはゆっくり過ごさせてもらった。暑いレシーフェでは、そうは毎日ハード・ワークをこなす気にはなれない。 そんなわけで、午前中に仕事のすべてをすませて、午後は近くの海鮮料理レストランで昼食。ラティーナの船津さんやフランスのナイーヴ社の担当者(女性!)などもさそってレストランへ向かった。ベト・カゼスくんやロブ・ジジタルのロベルト社長なども加わって、なんとも楽しい昼食。レシーフェの魚介類はリオのそれよりずっと美味しい。その後はタクシーで再びオリンダに行ったり、民芸品屋さんで買い物をしたり、まったくの観光客気分だ。まあ、こんな日が一日くらいはあってもいいだろう。 夜は見本市の会場でショウ・ケースをいくつかチェック。今日はサンバの日だったらしく、ネルソン・サルジェントも出演していたが、彼が出演した時間にはもう疲れを感じていたので、楽屋によって挨拶をすることもなく帰ってしまった。ホテルに戻ったのは午後11時。明日はいよいよレシーフェともお別れだ。 |
2月9日(金) 昨晩遅かったにもかかわらず今朝も6時に起床。せっかくのボア・ヴィアージェン海岸での散歩を休みたくなかったからだ。今日は今回のブラジル滞在中でももっとも忙しい一日。昨日は午後からだったミーティングを、午前9時から午後7時まで、昼食の時間を除いてぶっ続けでやらないといけない。昨日でも大変だったのに、その倍の打ち合わせをこなすなんて、いったい誰がこんなスケジュールを組んだのだろう。 そんなわけで、午前8時にはホテルを出発。予定通り、9時から打ち合わせをスタートさせた。昨日と同様、10分か15分おきに業者さんたちがやってくる。予定通りにはまったく進まず、地元のレーベルの人が多いのも昨日と同様だ。リオやサンパウロからやってきたレーベルの人は、全体の30パーセントくらいだろうか。 そこで驚かされたのが、リオやサンパウロでも配給されていないCDをいきなり日本に売り込もうという人が多かったこと。もちろん、ブラジルでは評価されない音楽が海外でいきなり紹介されることはありえる。ベベル・ジルベルトやセウ・ジョルジあたりは、ブラジルじゃまったく売れていないが、ヨーロッパや日本では人気者だ。でも、それはあくまで一握りであって、誰もがそんなラッキーな海外進出を果たせるわけではない。実際、今日もらったサンプルの山からそういう可能性を見出すことは、非常に難しい。なによりも、あまりに何も考えることなく簡単に作られたアルバムが多いことが、その装丁を見ただけでも想像できるからだ。 デジタルの時代になり、プロトゥールズなどの安価なスタジオが登場したおかげで、地方にいてもレコードが作れる時代になった。それはそれで良いことだとは、ぼくも思う。かつてバイーアや北東部出身の音楽家たちは自分を売り出すためにはリオやサンパウロに行かないといけなかったが、いまは地元にいてもレコードを録音できる。それがいまのレシーフェの音楽シーンに活況を生んだことは間違いない。 でも、それはそうなのだろうが、どれもこれもそんな意欲に溢れた音楽ばかりではないのもまた現実だ。今日もらった150枚のサンプルの中から、どれくらいの意欲作を探し出すことができるものか。いまの時点ではちょっと心配だ。ただ消費されるだけのために作られた音楽が、昨年より格段に増えてしまったという印象です。 そんな怒涛のミーティングを終わらせた後、夜は見本市会場前の野外ステージのコンサートを見学。今日はマリア・リタ、エルバ・ラマーリョ、ジェラルド・アゼヴェード、アルセウ・ヴァレンサ、そしてジルベルト・ジル大臣まで出演する公演ということもあって、会場は超満員だった。ただ、それぞれがたった1曲ずつしか歌わないという構成なので、あまり面白い公演ではない。どの歌手も、熱くなる前に終わってしまうという感じ。まあ、お祭り興行というのはこういうものなのだろう。 豪華スターの公演のすぐ先の通りでは、フレーヴォやマラカトゥーのグループが通りを練り歩いて演奏している。そちらのほうが楽しそうなので、場所を移動して、ビールを飲みながら楽しむことにした。大スターたちの競演は別に他の機会でも見れる。でも、こんな庶民的なパレードはここでしか楽しめない。フレーヴォの熱狂は、メインステージの公演が終わってからも延々と続いていた。 |
2月8日(木) いつも通り、朝早く起きてホテルの近くのボア・ヴィアージェン海岸でウォーキング。さすがにレシーフェ。リオよりもずっと日差しが強い。1時間ほど歩いただけで、汗びっしょりになってしまった。 それから朝食の後、ロビーで今日の予定をチェックしていたら、『ラティーナ』誌の船津さんと遭遇。彼もやはりブラジルのインディペンデント・レコード協会に招待されて、レシーフェにやってきたのだそうだ。どうも日本からやってきたのはぼくらだけらしく、旅は道連れということで、二人でお昼前に見本市の会場に向かう。でも、会場はまだ準備中。そこで近くのレストランでビールを飲みながら待つことにした。 ちなみに『ラティーナ』はいま編集作業の真っ最中。船津さんも仕事を抱えての旅のようだが、こういう仕事をしているかぎりは、旅行中は仕事から離れられるなんてことはありえない。ぼくもそうだが、彼も滞在中のホテルで原稿を書かないといけないのだそうだ。 午後2時に開場。いよいよ本格的な仕事のはじまりだ。<フェイラ・ムジカ・ブラジル>には、ブラジル中からたくさんのインディペンデント・レーベルが参加しているが、ぼくの仕事はそれぞれの会社と会って、商談を進めること。と言っても、ちょっとくらい会って話しただけで、仕事が決まるなんてことはありえない。まずはサンプルをもらって、お話を聞いて、可能性を探ること。この会場での打ち合わせでできるのは、そのくらいだろう。 会場にはいると、今日の予定表をもらったが、それによると20分おきに20件ほどの会見があるようだ。ただ、そこはさすがにブラジル。まったく予定通りには進まない。午後2時に予定されていた人が午後4時になってやっとやってきたり、明日の予定だった人が今日来てしまったり、予定外の人がどんどん入ってきたり、まったくの混乱状態。予定通りの時間に打ち合わせをした会社は、なんと一社もなかった。そんなわけで、こちらも事前の準備はまったくできない。とにかく、やってきた人の名刺をもらって、サンプルをもらって、話を聞く。それの繰り返しだ。途中から一般の業者さん(あるいは音楽家本人)も入れはじめてしまったので、ますます混乱状態。みんな自分のCDを差し出して、どうかじっくり聞いてくださいと言ってくるのだが、今日だけでもらったサンプルは150枚以上。それを、どうやって<じっくり>聞けばいいのだろうか。 そんな面談会場がひとしきり盛り上がったのは、文化大臣のジルベルト・ジルがやってきたときだった。テレビ局のクルーやカメラマンも一緒にやってきて、ぼくらとの面会を撮影している。見本市の宣伝のためなのだろう。ただ、そこはジル大臣。さすがに芸能人だ。ただ顔を見せただけでなく、会場のブースをゆっくりと回って、一人一人とゆっくり話をしている。おかげでぼくもジル大臣との2ショット写真を撮られ、ひとしきり話をすることになった。 ちなみにジル大臣が面白がっていたのは、サンビーニャという会社名。そこでぼくがトン・ジョビンの曲から名前を取ったことを言うと、にっこり笑って「ワン・ノート・サンバ(サンバ・ジ・ウマ・ノータ・ソー)」を歌いはじめた。ジョビンと言って、すぐに曲題を思い出してくれたのは、ジル大臣がはじめてだ。そんな場面もテレビ・クルーにしっかり撮影されている。日本人と大臣とのこんな会話は、たしかに見本市の宣伝になるのかもしれない。 そんな仕事が終わった後は、ぼくらの歓迎パーティをやってくれるというので、その会場に向かうことにした。これがなんとアルセウ・ヴァレンサのオリンダの自宅。ヴァレンサはリオのレブロンに家を持っているはずなので、ここは故郷にきたときに滞在する別荘のようなところなのだろう。 オリンダはもともとオランダ領だったが、その時代に作られた古い家や町並みがいまもそのまま残っている。しかも文化財として残しているのではなく、人がしっかり住んでいるので、どの家も古いのにちゃんと補修されていて、すばらしい町並みを保っている。ヴァレンサの家ももちろんそんな古い家のひとつだ。すばらしく広い居間には絵画なども飾られて、さすがに趣味の良さを感じさせる。いや、彼の音楽以上に、趣味が良いと言ったほうがいいのかも…。 ヴァレンサは思った以上に気さくな人で、見本市会場にやってきたジル大臣と同様、外国からやってきたお客さんたちの間をゆっくり回って、一人ひとりと会話をかわしている。かつては北東部ロックの鬼才と呼ばれた彼も、いまではすっかりペルナンブーコを代表するアーティスト。それを自覚して、こんなパーティを開いてくれたということなのだろう。 ヴァレンサ宅では夕食までいただいて、ホテルに戻ったのはもう12時過ぎ。レシーフェでの長い一日がやっと終わった。 |
2月7日(水) 朝早く起きて、リオから北東部ペルナンブーコ州の州都レシーフェに移動。7時過ぎにはホテルを出ないといけないスケジュールだったので、今朝の散歩は残念ながらお休みだ。そうしてレシーフェに着いたのはお昼過ぎ。一緒に飛行機に乗っていたのは、ほとんど音楽関係の人たちだったようだ。 実は今回ブラジルにやってきたのは、レシーフェで開かれる<フェイラ・ブラジル・ミュージック>という見本市に参加するため。ブラジルの独立レーベル協会の会長は、ヴィゾンというレーベルのカルロス・アンドラージが務めているが、実はぼくが20年近く前にプロデュースしたショーロのライヴ・アルバム『ショーロの夕べ』の録音エンジニアを務めてくれたのが彼。そんな彼に送った推薦者リスト(誰が作ったのかぼくは知らない)にぼくの名前を見つけ、懐かしくなって招待してくれることにしたらしい。そんな事情はともかく、今回は、ぼくが昨年参加したポルト・ムジカールと共同開催。そっちにも顔を出すことができるので、ぼくにとっては一石二鳥ということになる。 そんな見本市は明日から。今日はとりあえずホテルにチェックインして、準備を進めるだけだ。チェックインのときに、ちょうど別の便でやってきたゼー・メネージス一行と遭遇したので、一緒に昼食。メネージス老がすぐにリハーサルをやりたいというので、再び見学させていただいた。メネージスは、ラダメース・ニャターリのキンテート(とセステート)にも参加していたベテランだが、マルチ弦楽器奏者ぶりは相変わらず。今回のコンサートでも、ギターとカヴァキーニョ、さらにテナー・ギターも演奏するらしい。今日は昔話もたくさん聞かせていただいて、とても有意義な午後を過ごさせてもらった。 夕方には明日の打ち合わせ会場に出向いて、場所や時間をチェック。夜はホテルに戻って、会社のリスト原稿を完成させてから、ベッドにもぐりこんだ。明日から、また忙しくなりそうだ。疲れを取っておかないと。 |
2月6日(火) 今日も早起き。ウォーキングと朝食を済ませた後、8時からホテルで仕事をはじめた。そして午後からは外出。イマネマとセントロで少し買い物。そして午後には、旧友のパウローンの自宅で昼食をご馳走になった。 今回の旅行の中で、実は今日だけがオフ。買い物に出たのはそのせいだ。もちろん、お目当てはレコード。CDは自分の会社で輸入しているので、わざわざ新譜をチェックする必要はない。そこで今日は古いLPとSPを求めて、いきつけのお店をいくつか回ることにした。 今日買ったのは、SP20枚とLP20枚。SPは残念ながらブラジルの音源で掘り出し物はほとんどなく、代わりにキューバのソノーラ・マタンセーラのシーコ時代の音源を4枚ほど購入。またLPは、全体に高いものが多いので、ボサ・ノーヴァ時代の珍盤を中心に買ってみた。レアルが高くなったせいで、昔ほど割安感はなく、交通費を考えたら、よほどたくさん買う人は別にして、日本のお店で買ったほうが安上がりなのだろう。それでも、外国でのレコード漁りは、日本でのそれとは違った楽しさがある。帰国までにもう半日でも時間が取れたら、今日行けなかったお店も回りたいところだ。 夕方はホテルの近くの練習スタジオで、ショーロのベテラン弦楽器奏者ゼー・メネージスのリハーサルを見学。今年で85歳になるというメネージスだが、まだまだ元気一杯。若いメンバーを従えて、楽しい演奏を聞かせてくれた。彼らはぼくと同様、明後日からレシーフェに行って演奏するのだとか。本番のステージも楽しみだ。 |
2月5日(月) どこにいてもぼくのスケジュールはさほど変わらない。朝は早く起きて、ホテルの近くでウォーキング。自宅にいるときには近くの別所公園ですることを、リオではコパカバーナ海岸でするだけの違いだ。でも、そうは言いながらも、やっぱり圧倒的にすばらしいグァナバーラ湾の夜明けの景色を見ながら靴も履かずに裸足で波打ち際を歩くのは楽しい。そしてその後、汗を一杯かいた後に飲むフレッシュなミックス・フルーツ・ジュースが実に美味しい。リオにいてもっとも幸せに感じられるのがこのときだ。 今日は打ち合わせが続く一日。朝こそホテルでパソコンに向かいながら仕事をしたが、エンリッキ・カゼスと一緒に昼食を取ってからは、夜まで何度か場所を変えながら4人との打ち合わせを進めた。実はそのうちの二つが、来月に発売する独自制作アルバムについて。ブラジル人の専門家たちと話し合えたおかげで、選曲もかなり固まってきた。この分だと、帰国したらすぐに完成に向けて作業を進められそうだ。 エンリッキと昼食を取っているときに、最近売り出し中の若手男性歌手アルフレッド・デル・ペーニョがレストランを訪ねてくれた。彼は日本を出る前にぼくにメールをくれて、ポルテーラの古いサンバを調査しているので、もしも何か資料があったら持ってきてくれとお願いしてきた。そこで86年にヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラのアルバムをプロデュースした頃にメンバーの自宅などで録音したカセット・テープがあると返事したら、ぜひ直接会いたいということになり、レストランに出向いてくれたらしい。日本人のぼくがブラジル人も持っていないポルテーラの未発表作品を持っているというのも不思議な話だが、近くに住んでいて会おうと思えばいつでも会えたリオの人たちより、地球の反対側に住んでいるぼくのほうがいつも真剣に彼らと接していたということだろう。アルフレッドは、まだ25歳くらい。ちょうどぼくがヴェーリャ・グァルダたちのアルバムをプロデュースしていた年齢だ。若いだけに意欲がハンパじゃない。良い形で作品を発表してくれることを期待したい。 さすがにまだ時差ぼけが治っていない。夜7時を過ぎたら強烈な睡魔が襲ってきたので、早々にホテルに戻って就寝。一日中歩き回ったので疲れたのだろうか。 |
2月4日(日) |
2月3日(土) 今日からブラジル出張。午前中に家を出て、午後1時15分のアメリカン航空のダラス行きの便に。今回はダラスとマイアミで乗り換えてリオに向かうという便を予約したのだが、これで行くと、ダラスとマイアミでたっぷり待ち時間がある。そこで、飛行機の中では出来るだけ寝るようにして、待ち時間は読書で過ごすことにした。そのために、かなり分厚い本を用意。でも、集中して読めたおかげだろう、リオに着くまでに、ほとんど読了してしまった。 |
2月2日(金) |
2月1日(木) |