4月30日(月)

 ゴールデン・ウィークの3日は完全に仕事モード。月末の経理仕事もやらないといけないし、明日の支払いの準備もしないといけない。先に篠原さんにお送りした対談原稿の起こしもチェックしてもらったので、これも完成させないと。本当は仕事で引っ張り出されたCDがちゃんと定位置に戻らず大荒れになっているCD棚をちゃんと整理したかったのだが、とてもそんな時間は作れなかった。

 でも、せっかくの休みの日に仕事ばかりじゃつまらないので、夕方は早めに終わりにして、夜はDVDで入手した映画『ザ・メッセージ』を見ることに。イスラム教を創始したムハンマドの半生を描いた3時間の大作映画で、1976年の制作。リビアのカダフィ大佐が制作費を投入して作られたという話を『ハリウッド100年のアラブ』という本で知って以来、ぜひ見たいと思っていた1本だ。
 もちろんムハンマドの半生を描くと言っても、イスラム教では神も預言者も偶像化してはいけないという教えがあるので、ムハンマド自身はこの映画に登場しない。メッカを制圧する直前に戦死した叔父のハムザ(アンソニー・クイン)あたりが主役扱いだ。そして音楽好きなら関心を持たざるをえないビラール(ジョニー・セッカ)が準主役級。ビラールは、アフリカ人奴隷としてアビシニアに連れて来られていたところをムハンマドに助けられ、以来ずっとムハンマドと行動をともにするのだが、美声の持ち主だったことから、いまで言うアザーンを最初に創唱することになった。要するに、アラブのコブシ系音楽のルーツとも言える人物がビラールなわけだ。映画では、そんなビラールが歌う最初のアザーンのシーンもしっかり登場するから嬉しくなる。それも含めて、イスラム教に関心を持っている人には楽しく見れる1本だろう。
 しかし不思議なのは、モロッコとリビアでロケを行ったというこんな大掛かりな映画の制作費を、カダフィはいったいどうやって集めたのか、ということだ。監督のムスタファ・アッカドは、この映画のほかに、まったく同じセットでアラブ人の俳優を使い(おそらくアラブ・マーケット向けに)同じ内容の映画を作ったのだそうだが(そちらもぜひ見てみたい!)、だとしたら制作費はますます高かったはず。カダフィがそんなお金を持っていたとすれば、他のアラブの国々からの支援があったとしか考えられない。ちなみに76年と言えば、カダフィが自国にトゥアレグ人たちのキャンプを作り、革命闘士として育てるためにもお金と勢力を注ぎ込んでいた時代。そこで“育てられた”のがティナリウェンのオリジナル・メンバーたちだったことはご存知だろう。そんなトゥアレグ・キャンプのことを知ったときにも驚かされたが、同じ時代にハリウッドでこんな大作映画まで作っていたといたなんて、スゴすぎる。この時代のカダフィはぼくらが思っていた以上に高い志を持って活動をしていたようだ。
 アラブ世界のことは、まだまだ知らないことがあまりにたくさんある。やっとスタートしたアラビア語と一緒に、少しずつでも勉強してゆきたい。

 

4月29日(日)

 ゴールデン・ウィークの2日めは、午後から打ち合わせ。本当はもう一日くらい自宅で過ごしたかったのだが、この打ち合わせだけ休み前に終わらせることができなかった。でも、打ち合わせ場所が上野だったので、その後は久しぶりに浅草へ。好い天気の中、2時間ほどゆっくり散歩できたので嬉しかった。本当は夜までここにいて、お酒も飲みたかったところだが。

 

4月28日(土)

 本当に久しぶりのお休み。丸一日ゆっくりできたのは、いったいいつ以来なのだろう。ここのところ忙しい日が続いたので、仕事部屋は思い切り散らかっている。まずは出しっぱなしになっている本やレコードをちゃんと棚に戻して、部屋を掃除。その後、洗濯をして、食材を買い込んで、なんてことをしていたら、すぐに夕方になってしまった。でも、掃除や洗濯なら、CDをかけながらできる。夜もあれこれCDを聞きながら、ゆっくり読書。こんな当たり前の休日がすごく嬉しく感じられた一日だった。

 

4月27日(金)

 今日は1ヶ月で一番慌しい支払日。でも、これが終われば、ゴールデン・ウィークの前半は少しだけゆっくりできる。そう思って、なんとか頑張った。こうも忙しいと、日記もゆっくり書いていられない。

 

4月26日(木)

 朝からリストの原稿を書いて、午後は明日の支払いの準備。そして夜は打ち合わせ。その後四ツ谷のメキシコ料理のお店に行くことになったのだが、これが大正解。久しぶりに美味しいラテン・アメリカ料理を楽しませてもらった。もちろんメキシコ料理屋さんだから、目の前にはテキーラがある。最初はワインだけ少し飲んで帰ろうと思ったのだが、結局我慢できなくなって、テキーラもアレコレと味見させてもらうことに。でも疲れているせいか、酔いが回るのが早い。

 

4月25日(水)

 今日も朝早く起きて、自宅でひたすら原稿書き。昨日と同様、なんとか時間ギリギリに終わらせることができた。そして夕方に打ち合わせを1本こなして、夜は久しぶりに仕事と(あまり)関係のない食事会。今週は昼間だけでなく、珍しく夜も忙しい。

 

4月24日(火)

 昨日に続いて、朝から解説原稿書きに集中。なんとか夕方までには仕事に区切りをつけた。そこで夜は新宿で打ち合わせ。詳しくは書けないけど、この秋に面白いコンサートを実現できそうだ。

 

4月23日(月)

 終日、テープ起こしと解説原稿書きに集中。日記を書いている余裕はない。

 

4月22日(日)

 昨日の篠原さんとの対談テープを起こそうと思ったのだが、金曜日にブラジルのジャーナリストたちからメールによるインタビューが何本か送られてきていたのを思い出して、まずその返事を書くことにした。ちょうどブラジルではぼくが以前プロデュースしたサンバ・アルバムがまとめて発売されているので、レコード会社のほうでジャーナリストたちに取材を依頼したのだろう。
 でも、そんなインタビューの質問に答えながら、だんだんバカらしくなってきた。例えば、自分たちだってロクにわかりもいない英語の歌を日常的に聞いているくせに<日本人には伝統サンバの歌詞の意味がわかるのか?>とか聞いてくる神経は、ぼくには理解できない。どうせ日本人にはサンバなんてわからないだろうと言いたげだ。そこでマジメに返事をするのも面倒だから、<俺の場合は、言葉の意味がわかるようになった現在より、何もわからなかった70年代のほうがサンバを楽しんで聞いていた>と答えた。事実ぼくの場合、歌詞の意味がわかってからより面白く感じられるようになったサンバなんて、ひとつもない。言葉なんてわからないくらいのほうが、音楽に集中できる。
 そうそう、<日本にはエスコーラ・ジ・サンバがあるのか?>という質問もあったので、<あるかもしれないが、そんなものは知らないし、興味もない。日本のエスコーラだけでなく、ブラジルのも、だ>と答えた。エスコーラ・ジ・サンバ出身の重鎮たちのレコーディングをしてきたぼくだが、いまでは本場リオのエスコーラだって、重鎮たちが若かった頃のそれとは違ったものになってしまったことを、イヤというほど知らされている(だからこそ、重鎮たちはぼくを介して外の世界に向けて歌っているのだ)。ましてや、それを形だけマネた日本のエスコーラなんて、どこに存在価値があるのだろう。ぼくは、重鎮たちが歌うサンバが好きだっただけで、どんなサンバだって好きなわけではない。そのことを向こうのジャーナリストたちにわかってもらうには、かなり時間がかかりそうだ。

 こんなことでいちいちカリカリするなんて、きっと疲れているのだろう。

 

4月21日(土)

 午前中は税理士さんとの打ち合わせ。午後は池袋に出て、タワーレコード新宿店の篠原さんを相手にある原稿のための対談をやった。ただ、さすがにここのところ休んでいないので疲れが出たのか、その後は仕事をする気分になれず、篠原さんを誘って池袋の飲み屋さんで昼間っから焼き鳥とビールを楽しむことに。同じく昼間っから酔っ払っているヘンなオヤジにからまれて困ったが、それでも久しぶりの息抜きができた。篠原さんには、つき合わせてしまって申し訳ないことをしたが…。

 

4月20日(金)

 昨日に続いて今日も大忙しの一日。明日税理士さんが来ることになったので、帳簿を整理しなければいけなくなったら、大慌てだ。毎日ちゃんとつけていれば問題ないのだろうが、ぼくは経理専門じゃないから、そんなことをやっている余裕はない。結局、1日で1か月分の帳簿をまとめることになるから、一日仕事になってしまう。今日もお昼過ぎにはじめたのに、終わったのは夜遅く。いつも書いているが、数字ばかりを眺め続けた一日は、本当に疲れる。

 

4月19日(木)

 午後から2本打ち合わせがあったので、その前には仕事を終わらせないといけない。そんなわけで今朝は思い切り早起き。6時からリスト作成に取り組んだ。何をしたかというと、新譜のリリース状況のチェックだ。ブラジルのリストを作るだけでも毎週20ほどのサイトをチェックするなど、木曜日はあっちこっちのサイトに飛んで、情報を収集する。ぼくのパソコンのインターネットが一番活躍するのが木曜日の朝だ。
 そんな作業をしながら、ふと思ったことがひとつ。インターネットのおかげで、たしかに検索などは便利になったが、でもなぜか、そうして得られた情報はあまりありがたみがないな、ということだ。というのも、サイトに書かれた原稿はどれも(日本語のものに限らず)、なんかみんなお気軽な文章ばかり。質よりも量で勝負、という感じだろうか。昔は雑誌や本に文章を書けること自体が名誉だったし、お金をもらう仕事ということもあって、みんな真剣に書いた。信用できるデータも多かったのはそのせいだ。でも、こうしてサイトに書かれた文章はそれと同次元のものとはとても思えない。そんなのをいくらたくさん検索したところで、本当に信用していいのだろうか、なんて思えるものが多い。
 インターネットがあるから新聞も雑誌も読まなくなったという人がいるけど、ぼくはどうしてもそういう気にはなれない。サイトに書かれた文章だけでは絶対に満足できないのは、タダで見れるものにそんなすばらしいものがあるわけがない、という確信があるからだ。
 ぼくが書いた解説原稿をこのサイトにアップしないのは、そのせいでもある。解説原稿はあくまでお金を出してCDを買ってくださるお客さんのためのものであって、タダでお見せするものではない。これがタダで見せるものになってしまったら、逆にぼくらの仕事がいい加減なものになってしまうだろう。
 というわけで、タダでお見せするのは、この日記だけ。大したことが書かれていないのは、そのせいです。もっと密度の濃い原稿は、どうぞCD解説をご覧くださいね。

 

4月18日(水)

 長崎市長が暴力団に撃たれたというニュースと一緒に、アメリカの大学での大量殺人のニュースも届いてきた。でも、そんな事件にかくれて、バグダッドでは今日も150人もの人が殺されているというニュースが小さく扱われてしまうのはどうしたものだろうか。アメリカの銃社会も危険だけど、バグダッドはもっともっと危険だ。そんなバグダッドの市民は、アメリカの大学で起きた事件をどのように思っているのだろうか。

 そんなことを考えながら、なんとか昼間のうちに解説原稿を1本脱稿。夕方からは雑用仕事もこなした。今日はウィルソン・モレイラの86年録音(もちろんぼくのプロデュース)の解説を書いたのだが、どうも自分で作ったアルバムの解説は書くことが多すぎて、時間がかかってしまう。おまけに今日は体調が最悪。トイレに15回も通った。こんなときの原稿書きは、やっぱりツラいです。

 

4月17日(火)

 先にババズーラの日本公演でもベリーダンスを楽しませてくれたノーラ(Naurah)さんから面白そうな公演の情報が届いたので、サイトで紹介させていただくことにした。もちろんノーラさん自身も出演するベリーダンスの公演だが、伴奏が録音された音源ではなく、日本人のバンドによるナマ演奏をバックに踊るというのがミソ。ぼくはトルコ音楽の伝統スタイルのバンド演奏は見たことがないし、それをバックに踊られるベリーダンスもはじめて。なので、ぼくも見に行こうと思っている。春らしい華やかな公演になりそうだ。

 

4月16日(月)

 ここのところ暖かくて春らしい陽気だと思っていたら、今日は一転してすごく寒い一日。午後から雨も降り出した。こんな日に疲れた状態で外出したら、すぐにでも風邪を引きそうだ。そんなこともあって今日は一日中自宅で作業を進めることに。午前中に解説原稿を2本仕上げて、午後からは新企画シリーズの準備。遅い時間には自宅近くで打ち合わせが1本。夕方からはメールの返信…。

 先に発売した『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』はご好評いただいているようで、お買い上げいただいたファンの皆さんからたくさんメールをいただいた。これほど反響をいただいたアルバムははじめてかもしれない。ただ、メールをくださる方のほとんどがジョアン・ジルベルトの熱狂的なファン。そうじゃない方々がこのアルバムをどうお聞きになったかは、いまのところわからない。のファンの皆さんにはご好評いただけたようだが、そうじゃない人にはどうなのだろう。雑誌などで音楽評論家の皆さんのご意見を知れるのは今週以後だろうが、それがいまからすごく楽しみだ。
 ぼく個人としては、このアルバムをジョアン・ジルベルトのファンの皆さんにだけ向けて作ったつもりはまったくない。たしかに、ぼくにとってのジョアン・ジルベルト研究の序章のような内容だが、それ以上に大切だったのが、これまで忘れられてきたブラジル音楽の歴史の一断面を掘り起こすことだった。そういう意味では、昨年発表したピシンギーニャの『ブラジル音楽の父』とまったく同じ視点で作られた一枚だ。ピシンギーニャのアルバムがそうであったように、今回もジョアン・ジルベルトやボサ・ノーヴァしか知らない人にも有益で、しかも古典サンバを含めてブラジル音楽を幅広く聞きこんでいる人にも楽しんでもらえるような高度な内容を目指した。そんな部分が音楽評論家の方々にどう評価されるか、皆さんと一緒に楽しみに待つことにしましょう。

 なんてことを、いちおうは書いているが、実はぼくの気持ちはジョアン・ジルベルトからとっくに離れて、次のプロジェクトに向かっている。このゴールデン・ウィーックにはまた別のアルバムの編集に取り組む予定で、レコード・プレイヤーの前には新たなレコードが並びはじめている。今度のはちょっとややこしい内容なので、2週間やそこいらでは完成できないかも。でも、たとえ時間がかかっても、なんとか面白いものを作るつもりなので、楽しみにしていてください。内容は、いまのところ秘密です。

 

4月15日(日)

 土曜が掃除と洗濯なら、日曜は朝から原稿書きというのもまた、すっかり日課になってしまったようだ。メールも電話もない日曜日は、確かにひとりで自分の仕事をするのに適している。ただ、そうは思うんだけど、やっぱり他人が遊んでいると思うと、ちょっと悔しいのも事実。代わりに他の日を休みに出来るのであれば問題ないのだが…。

 なんてことを思ったせいか、今日はさすがに夜遅くまで仕事をする気にならず、夕方5時くらいには切り上げて、久しぶりにビールを飲みながらCDをゆっくり聞くことにした。ついでに読みはじめたのが村上由見子さんの『ハリウッド100年のアラブ』(朝日選書)という本。これがかなり面白く、<リビアのカダフィ大佐が資金援助して作られた>という76年の映画『ザ・メッセージ』のDVDを思わずアマゾンに注文してしまった。カダフィのキャンプがティナリウェンを育てたことは知られていると思うが、ちょうど同じ頃にアメリカ映画にも影響力を及ぼしていたなんて、知らなかった。本と映画の感想は、しっかり読み終わってDVDを見てからまた書きますね。今日はとりあえずひとりで熱中させてください。

 

4月14日(土)

 毎週土曜日は掃除と洗濯の日。別にそう決めているわけではないのだが、月曜から金曜まではそんな時間もないので、どうしてもこうなってしまう。なので、この日に雨が降ってしまうと、非常に困ってしまうのだが、今日はすばらしく良い天気。洗濯物がパリッと乾いて、非常に気持ちいい。これで来週も、着るものに関してだけは気分良く過ごせそうだ。

 そして午後からはパソコンに向かって、書き物仕事。これもすっかり日課になってしまった。でも、天気が良いせいか、今日はさほど憂鬱ではない。ゴールデンウィーク前は毎年忙しいものだが、どうも今年もそんな感じになってきた感じだ。

 

4月13日(金)

 余程の用事がないと東京には出ない生活を10年近く続けているせいか、たまに渋谷とかに出ると、あまりの人ごみにむせ返った気分になる。これはぼくだけかと思っていたら、どうもニューヨークやパリといった大都市からやってきた人にとっても同じだったようだ。
 今日は珍しく新宿と渋谷で打ち合わせ。そのうち、渋谷で会ったニューヨーク在住のプロデューサーの人が、駅前の交差点を見て、こんなに人がたくさんいる場所をいままで見たことがないと驚愕していた。彼はパリ生まれで、20歳になった頃にニューヨークに移住。いま40歳ちょっとだから、両方の都市をほぼ同じ年数住んだことになる。そんな彼ですら、渋谷駅前の交差点のように人が溢れた場所は見たことがないと言うのだから、きっとタイヘンなものなのだろう。パリやニューヨークより、メキシコ・シティやサン・パウロ、インドネシアのジャカルタなどのほうが人口は多いはずだが、そんな場所でも渋谷に匹敵する混雑を、ぼくは見たことがない。まさに世界の誰が見てもビックリの混雑ぶり。そんな場所でも平気でいられる人のほうが普通じゃないということだろう。

 今日はそのプロデューサーの方からいただいたサンプルCDで、ニューヨークになんともユニークなバンドが存在することを知らされた。まだまだ音楽的には未完成だけど、将来的にはかなり希望が持てる。いや、かなり近い将来に面白い音楽を作り出しそうだ。もちろんそのときにはライスで発売しようと思っているので、いまは名前を明かすことはできない。結果が出るのは、早くて今年の後半あたりかな。どうぞ楽しみにしていてください。

 

4月12日(木)

 今日も早起き。朝のうちにリストの原稿を片付けて、お昼には打ち合わせ。午後から会社で細かい仕事を終わらせて、夕方から夜にかけては自宅作業。その間に日本語と英語とポルトガル語で30本以上のメールを送信した。今週はイギリスやブラジルでややこしい問題が起きたせいで、その解決のために奔走。約束した仕事や会社の本格的な仕事にほとんど打ち込めなかった。こういう感じで一週間が過ぎてしまうと、週末は遅れを取り返すために働くことになる。悪循環だとわかってはいるのだが、こればかりはどうしょうもない。次の休みは、来週までお預けということになりそうだ。
 まあ、いまのところはフランコさえ聞いていれば、なんとか元気でいられるのだが。

 

4月11日(水)

 朝のうちに解説原稿を1本脱稿。午後は明日のリストの準備。さらに次のプロジェクトの準備などもあって、夜遅くまで働いた。その間のBGMはひたすらフランコ。ぼくにとって、彼の音楽はイライラしないための最高のお薬になってしまったようだ。
 映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』の配給されている会社が記念Tシャツを作られたそうで、サンビーニャのサイトでも売ることになった。Tシャツ単独よりもババズーラのアルバムと合わせて買うとお安くなるという価格設定になったようだ。個人的には、エレキ・サズを持った女性の姿がデザインされたほうが、けっこう良い感じ。皆さんはどうでしょう。映画やババズーラのファンの皆さんは、ぜひチェックしてみてください。

 

4月10日(火)

 いろいろ思うところがあって、最近アラビア語を勉強しようという気になってきた。実はNHKの『アラビア語会話』は先週からはじめていて、これが朝5時35分という、とんでもなく早い時間のスタート。これから金曜日は早起きだと決めたのだが(だから木曜日は誘われても飲みに行きません)、やってみてわかったのは、1週間に1度では、やっぱりなかなか身につかないということだ。先週勉強したことはもうとっくに忘れてしまっているし、この調子だと半年くらい勉強してもたかが知れている。なので、本を買い込んで独自に勉強しようと思い、本屋さんを何件か回ったが、いくら探しても使いやすそうな本が見つからない。どうしたらいいものかと困ってしまった。
 アラビア語を習おうと思ったのは、自分の会社でアラブ音楽関係のアルバムを発売することが多くなったのに、アーティスト名をどう発音するかすら確信が持てないようじゃ困ると考えたからだ。そんなこと、言葉のわかる人に教えてもらえばいいと思うかもしれないが、言葉がわかる人が日本人に向けて正しい(あるいは、わかりやすい)カタカナ表記ができるとは限らない。それはいま使われているポルトガル語の表記とかを見てもわかる。そうじゃなく、やっぱり自分でしっかり勉強して、確信を持ってかな書きができるようになったほうがいいに決まっている。
 どうすればアラビア語をすぐに覚えられるかは、実はわかっている。アラビア語を使う国に行って、一日中その言葉に漬かることだ。ぼく自身、外国語はいつもそんな調子で覚えてきた。最初にブラジル・ポルトガル語を教えてくれた先生は、2度目のレッスンから日本語をまったく話さず、わからなければポルトガル語で質問しろ、という教え方だった。その先生のおかげで、その後にブラジルに行った後も、この方法でブラジル人たちと話しながら自然に言葉を覚えた。だからぼくは大学とかでポルトガル語を勉強した人より、ずっと自然な話し方ができていると思う。
 他の言葉も同じだ。インドネシア語は先生にもまったくつかず、いきなり現地学習。ワルジーナさんやマントースさんが先生だった。実はいまだに辞書すら持っていないが、それなりに話せるようになった。英語は、学生時代の通信簿はいつも2(5段階評価の下から2番め)だったが、あれは教え方が悪かったせいで、必要な状況になればなんとかなった。日常会話はもちろん、ウォーメックスなどでのレーベルとの交渉でも、ぼくは通訳をつけたことが一度もない。
 そんなわけで、アラビア語ができるようになるためには、なんとか時間を作って、アラブ世界をぐるりと回るような旅をしたらいいということはわかっているのだが、そこで問題になるのが、そんな時間をどうやって作るかということだ。いまの会社の仕事を続けながらではとても無理。ヨーロッパなみに一ヶ月の休暇でも取れない限り、そんな時間は作れない。思えば、会社を持つ前のぼくは、アルバムのプロデュースだとかの言い訳をつけて、けっこう好き勝手に外国旅行に出ていた。でも、会社を作った9年前からそういう余裕のある旅がまったくできなくなった。本当は、アラビア語を勉強したいというのは単なる理由付けで、実は旅の虫が疼きはじめたということなのかもしれない。

 

4月9日(月)

 雑用仕事に明け暮れる一日。おかげで事務所にも行けず、一日中自宅のパソコンに向かって仕事をした。

 そんな仕事中にずっと聞いていたのが、なぜかフランコ。LPは手元に置いてないが、CDだけでも20枚くらいはある。久しぶりにそれらを取り出して、ずっと聞き続けた。フランコの音楽にドップリ漬かったのは、本当に久しぶりだ。ファンの皆さんはご存知のように、フランコの音楽には麻薬的な魅力がある。ハマッてしまうと、なかなか抜け出せない。昼間はBGMとして聞いていたのだが、夜にはまたじっくり聞きたくなり、今度は食事を忘れて聞きまくってしまった。こんなに人を惹きつけるアフリカ音楽は、やっぱり他にないと思う。
 思えば、ケケレーなどコンゴ音楽のベテランたちが復活したのが数年前。でも、そういったアルバムを聞いて、この国の古い時代の音楽に目覚めた若いファンの皆さんに聞いてもらうためのフランコのアルバムを、結局ラフ・ガイド・シリーズの作品くらいしか出せなかった。フランスなどにいくつかCDが残っているのだが、どれも権利関係が微妙で、どう対処してよいかわからなかったからだ。実はいまもそれらのアルバムを日本発売できるように交渉を続けているのだが、いまだに結論が出ていない。
 ちなみにフランコが亡くなったのは1989年。もうあれから18年になる。2年後の2009年には没後20周年だ。なんとかそれまでに彼の仕事を集大成したようなアルバムを出せると良いのだが…。

 

4月8日(日)

 疲れていたのか、昨日起きたのは午前10時。おかげで仕事がなかなか進まず、日曜の今日も早起きして仕事をするハメになってしまった。朝5時から解説原稿を頑張って、なんとか1本脱稿。2本めの途中まで書き上げた。でも、そこで気が付いたら、もう午後1時。こりゃ大変だと大慌て…。
 というのも、今日は『シャンソン歴史物語』の制作でお世話になった蒲田耕二さんと、そのプロモーションでお世話になった北中正和さんをお招きして、自宅で夕食会をすることになっていたのだ。駅での待ち合わせ時間は午後3時。なのに、飲むものも食べるものもまったく用意が出来ていない。それから慌ててスーパーに行って買い物をして、なんとか材料だけを揃えられたのが3時直前だった。

 食事会と言っても、飲みながら作る料理だから、たいしたものが出来るわけがない。スーパーで買ってきたものを切ったり焼いたりしただけ。飲み物は、ビールからはじまって、白ワインと赤ワインが計3本。特に北中さんが持ってきてくださった<ラシーヌ>というワイン(ライスから出ているカリの名物シリーズと同じ名前!)が独特の美味しさで、ちょっとやみつきになりそうだ。
 BGMはアンドリュース・シスターズからはじまって、リス・ゴーティ、ヨルゴス・ダラーラス、途中からSPに移って、インドネシアのラトナ、ペリー・コモ、ドン・アスピアス楽団(「南京豆売り」のオリジナル盤)、カルメン・ミランダ、そして最後は若き日のエリゼッチ・カルドーゾ(トダメリカ盤)と、かなり支離滅裂な選曲。でも、CDを続けて聞いた耳にSPの音がとても優しく感じられることを、改めて実感させられた。うちで食事会をするとき、いつも最後にかけるのがSPレコードになってしまうのは、どうもそのせいだったようだ。

 

4月7日(土)

 サイトのトップ・ページをごらんいただいてもわかるように、『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』のボーナス・トラックCDR付き販売は、終了させていただいた。おかげさまで予定枚数は完売。ここからは通常販売になる。入手できなかった皆様には申し訳ないが、こういう企画は長くダラダラとやるものではない。どうぞ、ご理解ください。

 その代わりというわけではないが、ライスでこれまで発売してきたブラジル音楽の独自制作アルバムを定価の20パーセント引きで売らせていただくことにした。こちらも期間限定のフェアーだ。『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』は、30〜50年代のサンバを集めたアルバムだったが、ライスでは同時代のサンバやショーロを集めたアルバムを以前から発売している。もちろん『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』と同様、すべてぼく自身が選曲し、解説を書いたもので、内容のクォリティもまた『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』と同様だ。これを機会に、ボサ・ノーヴァ、あるいはジョアン・ジルベルトのファンの皆さんに、その源流となった音楽をもっと聞いていただきたいと思う。関心のある方は、ぜひご利用いただきたい。

 また、数日前の日記でも書いたように、ぼくはジョアン・ジルベルト十八番集の第2弾を作るつもりはまったくない。やって出来ないことはないだろうが、第2弾、第3弾と進むうちにクォリティが落ちてゆくのは目に見えているし、それじゃファンの皆さんにかえって申し訳ないと思うからだ。そんなものを作るなら、むしろすべてのオリジナル音源を集めたボックス・セットの制作を目指すほうが賢明だ。ぼくは現時点ですべての曲のオリジナル音源を持っているわけではないし、いまのライスにボックス・セットを作れるような財力はない。でも、できたらが元気なうちに、ブラジルのコレクターの皆さんのご協力を得ながら、なにか記念碑的な作品を作れたらと思っている。

 ライス独自制作のブラジル音楽関係の編集盤はこれで10枚になったが、今後もさまざまな企画を考えている。そんなわけで、『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』でこのシリーズを知ったファンの皆さんには、今後とも長いお付き合いをお願いしたいと思います。どうぞ、よろしく。

 

4月6日(金)

 今日は報告がひとつ。先月、ババズーラの来日や映画『クロッシング・ザ・ブリッジ』のプロモーションを兼ねて、<サンビーニャ・エアウェイズ>というイヴェントをやらせてもらったのだが、その際に会場で、今月も27日に、今度は『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』のプロモーション・イヴェントをするとアナウンスした。でも、大変申し訳ないが、そのイヴェントを中止させていただくことに決めた。準備期間があまりに短く、しっかりした内容のイヴェントができるとは思えないからだ。前回のイヴェントも、ぼくは忙しくてまったく関われなかった。でも、そんな状態で毎月イヴェントを続けていっても、常に面白いことができるわけがない。この際だから、もう一度しきり直して、ちゃんとしたものが出来ると確信したときに再開させていただきたいと思う。楽しみにされていた方々には本当に申し訳ないが、どうぞご理解ください。

 

4月5日(木)

 昨晩は久しぶりに遅い帰宅になったが、それでも今朝は頑張って早起き。午前中に解説原稿を1本書き上げたかったからだ。そして午後は再び渋谷に繰り出して、昨日コンサートを見たババズーラのメンバーにインタビュー。彼らの音楽に詳しい音楽評論家サラーム海上くんとタッグを組んでの取材させてもらった。夕方から約1時間半のインタビュー。でも、通訳を介さないで話を聞いたので、内容はかなり濃密だ。近いうちに時間を見つけて、その一部をこのサイトでご紹介するつもりなので、ファンの皆さんは楽しみにしていてください。
 その後は、ダブルムーンの担当スタッフと夕食。そしてババズーラ一行の歓送迎会にも出席させていただいた。仕事がたまっているので、歓送迎会は出ないつもりだったが、夕食で少しお酒を飲んだら、すっかり飲み会モードに入ってしまいました。おかげで歓送迎会ではいろいろな方にお会いして、楽しいお話をたくさん聞かせていただけたし、日本人のダンサーの皆さんが踊るベリーダンスも堪能させてもらった。楽しい夜でした。それにしても、こんなに遅くまでお酒を飲んだのは、いつ以来だろうか。

 

4月4日(水)

 昨日は早く寝たので、今日は思い切り早起き。朝6時にはもうパソコンに向かって仕事をはじめていた。午前中はリスト原稿やもろもろの雑用。お昼から事務所に行って、再び雑用。ここまで大急ぎで仕事をしたのは、夕方には事務所を出て渋谷クラブ・クアトロでトルコのグループ、ババズーラの公演を見ようと思ったからだ。渋谷の人ごみが大嫌いなぼくだが、自分のところでCDを配給しているグループが出演するライヴだから見ないわけにはゆかない。
 今日は日本のダブル・フェイマスとババズーラのジョイント公演だが、まずビックリしたのが、ダブル・フェイマス目当てのファンが多かったのか、彼らのパートが終わったらかなり多くの人が帰ってしまったことだ。その分、人が少なくなってババズーラのステージは見やすくなったから、ぼくはありがたかったが、それでも最後まで見ても同じ値段なんだから、知らないバンドでもちょっとくらいは見てやろうという気にならないものかと不思議に思えた。
 ババズーラのライヴを見るのははじめてだが、プロモーション用のライヴDVDを見ていたので、ほとんど予想した通りだ。彼らはスタジオで音楽を練り上げてゆくタイプだが、そんな細かい作業ができないライヴでは、大きくスタイルを変える。演奏はすごくシンプル。プログラミングは作っておいたリズム・パターンをループするだけ。ダルブッカがそこにスウィングを加え、エレキ・サズがソロを取る、というスタイルだ。そこで見せ場を作るのは、むしろ2人のダンサー(今日はともに日本人)と、ステージの背景を描き続けるお絵かきお姉さん(彼女もステージにいるのだが、今日はなんとセーラー服姿だった!)と、そしてダブ・サウンド。普段クラブ公演に行かないぼくは、ナマのダブ・サウンドなるものをはじめて聞いたが、今日一番感心したのはそのエンジニアリングだ。今日はじめて共演したとは思えないほど見事な音さばきだった。

 それにもうひとつ、こうして久しぶりにオール・スタンディングのクラブ公演を見て気が付いたのが、どうも来ているお客さんが、普段CDを買ってくださっている方々と違うのではないか、ということだ。劇場で椅子に座って見ることができる公演の場合は、CDを聞いて来てくださる方が多いように思える。ジョアン・ジルベルトのときがそうだった。でもクラブ公演だと、自宅でCDを聞いているのが好きな人は、どうしても二の足を踏んでしまうのだろうか。ババズーラ自身も、聞かせるためのCDと、見せるためのライヴ・ステージは別のものだと考えていたようだし、そうせざるを得ない状況がこういう音楽にはあるのかもしれない。
 ちなみに、CDを聞いているファンが公演に来てくれないということは、いくらCDが売れてもコンサートのプロモートにはつながらないということになる。逆にコンサートでいくらお客さんが入っても、CDはまったく売れないということも起こりえる。両方を一緒にプロモートすることが難しい時代になったということだ。
 そう言えば、最近のウォーメックスのような国際音楽見本市では、CDレーベルのブースは減っているのに、プロモーターの数は激増している。ヨーロッパではコンサートのほうが優位に立っているのだろう。日本でも近い将来、そういう状況になるのかもしれない(いや、もうなっている?)。それはそれで仕方ないことだが、ぼくとしては、何年もレコードで聞き続けた末にやっと来日してくれて、そのときには歌われた曲のすべてを知っていた、なんて時代が懐かしい。

 

4月3日(火)

 ここのところずっと土曜日も日曜日も休めなかったせいだろう。どうしょうもなく身体がダルくて、何もする気になれない。そこで今日は一日、自宅で休養させてもらうことにした。
 ただ、いくら休んでいても、メールは平気で送られてくる。仕事と個人のアドレスを分けていないから、仕事関係のものもつい見てしまう。そして読んでしまえば、結局返信しないわけにはゆかない。そんな調子で、せっかくの休みも、午後からは仕事になってしまった。これじゃ、疲れも取れない。仕事の休みの日はパソコンを開けなければいいのだろうが、そうなると私信で急用のメールが来たときに対応できなくなってしまう。いったいどうしたらいいものか…。

 そんな昨日のメールの中に、『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』に関する問い合わせがあった。そのひとつが、Janet de Almeidaをぼくがジャネー・ジ・アルメイダと読んだのは間違いじゃないか、という内容だった。
 たしかにこの名前を普通にブラジル方式で読んだら<ジャネッチ>になる。『ボサノヴァの歴史』におけるカナ書きもそうなっていた。でも、ぼくはこれに疑問を持った。というのも、<ジャネッチ>というのはブラジルにおいて女性の名前であり、しかもスペルはJanetではなく、Janete(またはJanette)。Janetなんてスペルは見たことがないからだ。そこでぼくはブラジルの音楽研究家の何人かにメールを送って、この名前の読み方をお尋ねした。そうしたらその中にJanetの音楽を研究している人がいて、今回の<ジャネー>という読み方はその人からご教示をいただいた次第だ。
 おそらくJanetという名前は、英語のJanetではなく、フランス語あたりから来た名前なのだと思う。だとすれば、ジェラルド・ペレイラの本でJanerとミス・スペリングされていたのも納得がゆく。フランス語なら、語尾に置かれたtもrも、結局発音されない。発音されない音だから書き間違えたのだ。

 そしてもうひとつ、これも同じ『ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ』についてだが、収録された曲の邦題について尋ねられた方がいた。でも、これについては返信をしなかった。というのも、今回の邦題は、一部の曲を別にして、ぼくがつけたものではなく、これまで日本で出たアルバムでつけられていた邦題をそのまま使わせていただいたからだ(ご質問いただいた邦題もぼくがつけたものではなかった)。せっかく邦題で曲目を覚えていらっしゃる方々がいるのに、ぼくが違う邦題をつけて混乱させてしまうのも申し訳ない。特にジョアン・ジルベルトの場合はたくさんのファンがいるので、そういう混乱は避けたいと思った次第です(それでも、これまでカナ書きだったものなどには、出来るだけ日本語のタイトルをつけさせてもらったりはしたが)。

 

4月2日(月)

 金曜日に続いて経理仕事。社員のみんなもたな卸し作業があったせいで、今日はほとんど実質的な仕事ができない一日だった。それにしても数字ばかりを見て過ごした一日は、目がショボショボするし、疲れ方がヒドい。今日は肩もこってきた。ここのところしばらく休みを取っていないし、そろそろ身体を休めないといけない状態にきているようだ。

 

4月1日(日)

 昨晩の天気予報をチェックしたら、今日は天気が良いようなので、朝早く起きてお墓参りに行くことにした。父親が亡くなって5年半。以来、お正月とお彼岸とお盆には必ずお墓参りをしてきたが、今月のお彼岸は忙しくてどうしても時間が取れず、行けなかった。今日がその代わりだ。でも、父親には申し訳なかったが、予定より一週間遅れたおかげで、嬉しいことがあった。お墓参りしながら満開の桜をたっぷり楽しむことができたことだ。霊園内にこれほど多くの桜の木があったなんて、これまで知らなかった。しかも本当にすばらしい花を咲かせている。こんなにじっくりと桜見物を満喫できた春は久しぶりだ
 ただし、日曜日らしいことができたのは、そこまで。お昼過ぎには自宅に戻って、昨日の作業の続きに取り組んだ。サンプル盤もかなりまとめてチェック。ブラジルものや北アフリカものに面白いものがあった。そのうち、北アフリカものについては今度シリーズ化して発売しようと考えている。


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