2月28日(火)

 なんと今月の最終日に大量入荷。イギリス3社とフランス3社からまとめて荷物が届いて、大変なことになってしまった。もちろん多くは来月発売する新作アルバム。今日中に全部を出荷しないといけないわけではないのだが、それでも今日のうちに出荷しておきたいバック・オーダー分だけでかなりの数になる。ご存知のように、当社の商品はオビや解説がついたものがほとんど。詰め込みはもちろん手作業だ。だからこういうときには大パニックになってしまう。

 そんな作業を横目で見ながら、ぼくのほうは経理仕事にいそしんだ。今日は支払日。銀行に行かないといけないし、帳簿も締めないといけない。つい昨日、決算が全部終わったと思ったら、また経理関係の仕事だからイヤになってしまう。

 大量入荷した荷物と一緒に、サンプル盤も大量入荷。旅行前に届いていた新しい取り引き先のサンプルも合わせると、100枚を軽く超える量のサンプルがデスク周辺に並ぶことになった。しかも自宅の居間はブラジル北東部音楽のサンプルの山。音楽評論家をやっていた時代も、送られてきたサンプル盤をどうやって全部聞くか、悩まされたが、最近当社に送られてくるサンプルの量はその時代よりもはるかに多い。これじゃ当分他の音楽なんて聞けそうもない。

 夜はサッカー観戦。でも、疲れていたのか、試合途中で眠ってしまったらしく、中田の同点ゴールは見逃してしまった。時差ぼけはそろそろ解消されそうだが、旅行の疲れがいま頃になって出てきたようだ。

 

2月27日(月)

 昨晩は9時に就寝。でも今日はまた3時に目が覚めてしまった。時差ぼけが解消されるスピードがどんどん遅くなっている。もう若くないということなのだろうが…。

 早起きのせいで時間がたっぷりあったので、朝のうちに独自制作もののラフな選曲を済ませてしまった。さらに午前中は税理士さんと決算関係の打ち合わせ。これで決算仕事は完全に終わった。そして昼食の後に出勤して、久しぶりに会社で仕事。いつものことだけど、旅行の後は机の上に未処理の経理書類が山になっている。それらをせっせと整理していたら、もう午後4時になってしまった。朝3時過ぎから仕事をしているので、もうこのあたりが限界。帰宅して、ゆっくり休ませてもらうことに。

 そうして早く寝たところで、深夜に一大事発生。ぼくがセッティングした某女性歌手の電話インタビューができなくなってしまったことを、夜の一時過ぎにいただいた電話で知った。向こうでセットしてくれたのは英ラスのイアンさん。当社の取り引き先の中でももっとも几帳面な人だ。でも、普段は音信不通なんてことは絶対にないのに、今日に限っては電話も通じない。いったい何が起きたのだろう。結局、その後は心配で眠れず、朝の5時まで問い合わせを続けることになった。

 

2月26日(日)

 昨晩は午前2時に就寝。なのに今朝は6時には目が覚めてしまった。また完全に時差ぼけだ。まあ、今日の昼間に寝るようなことがなければ、明日にはたぶん治っているだろうが・・。

 久しぶりに白いご飯を食べたくなって、珍しく朝にご飯を炊く。塩シャケと焼き海苔があったので、それらをおかずに朝ごはん。ブラジル人でも米は日常的に食べるが、日本のような炊き方をするわけではないし、だいたい米そのものが違う。外国旅行中に日本食を食べたくなったことはこれまで一度もないが、それでも日本に帰ってくると米を食べたくなるし、そうして久しぶりに食べると米の美味しさはしみじみと感じる。やっぱり米こそが究極の日本の味だ。

 昨日成田空港から宅急便で送った荷物が届いたので、朝ごはんの後はテレビを見ながら荷物整理と洗濯を終わらせる。今回は旅行中に一度も洗濯ができなかったので、その量はハンパではない。あいにくの雨で干せないのは困ったものだが…。

 取り置きしておいた新聞をチェックしていたら、ぼくがいない間にライブドア問題は、民主党のメール問題に派生。とんでもない方向に進んでいたようだ。ライブドアから武部の息子にお金が送金されたなんてメール、いかにも民主党なら飛びつきたくなるおいしそうなネタだが、あまりにおいしそうすぎるところが疑わしい。ひょっとして自民党が民主党にまいたエサだったのではないか。

 ブラジルで買ってきた(もらってきた)CDは70枚ほど。夜はそんなCDを少しずつ聞いてみた。ブラジルはカーニヴァルの真っ最中ということで、今日聞いたのはフレーヴォのアルバムばかりだ。これが思った以上にたくさんあって、たっぷり楽しむことができた。そこで思ったのが、いまどきレシーフェほどブラス・バンドの伝統が残っているところも世界で珍しいかもしれないということ。街でもたくさんのブラス・バンドを見たし、レコードでも本当にたくさんのブラス・バンドが存在する。街を練り歩く姿は、まるでニューオーリンズのセカンドラインだ。中にすばらしくモダンで格好良いアルバムがひとつあったので、ひょっとしたら近いうちにライスで出すことになるかも。

 

2月25日(土)

 午後4時過ぎに無事に成田空港に到着。さすがにニューヨークから14時間の長旅はキツい。身体はダルいし、頭はボーッとしているし、これじゃ今日は何もできそうにない。そんなわけでまっすぐ帰宅したのだが、そこで困ったのは、それほど疲れているのに夜になってもなかなか眠れないことだ。だからと言ってアルコールを飲もうというという気にもならない。仕方ないからテレビでオリンピック中継を見ながら、自然に眠くなるのを待つことにした。荒川静香さんが金メダルを取ったことを、ここではじめて知る。女性らしさが自然に溢れ出た美しい演技だ。

 

2月24日(金)

 早朝にニューヨークに到着。今回の便は、なんとここで乗り換えのために5時間近く待たないといけない。そこで今日は、思い切って地下鉄で50番街あたりまで行ってみることにした。ただ、着いてから思い出したのが、まだ早朝だったこと。なので、どのお店も閉まっている。仕方ないから、コーヒーショップで朝食だけ済ませて、戻ることになった。しかし、夏のブラジルからやってくると、ニューヨークの冬はこそさら寒く感じる。

 ニューヨーク時間でお昼頃の便で成田に。さあ、これから14時間の長い空の旅だ。もうウンザリ…。

 

2月23日(木)

 頑張って朝9時に起きて、イパネマのヴィニシウス・ジ・モラエス通りに。買い逃した本がいくつかあったので、探しておこうと思ったからだ。ただ、どうしても見つからず、結局は注文だけして、後で送ってもらうことになった。その後、時間が少しあまったので、イパネーマ海岸を1時間ほど散歩。<イパネマの娘>たちをウォッチングしてから、エンリッキ宅に帰宅。

 エンリッキ・カゼスくんとベト・カゼスくんと昼食。今後の予定を打ち合わせしてから空港に向かう。カーニヴァル期間を外国で過ごそうというブラジル人たちで飛行機は満員と聞き、ウンザリしていたら、席に着いて隣にいたのがフランスから観光でやってきた可愛らしい女の子だったのでホッとした。なんでも両親がポルトガル人なのだそうで、だからフランス人とは思えないほどポルトガル語がうまい。おかげでニューヨークまで、退屈しないで過ごすことができた。

 

2月22日(水)

 朝は雨模様だったレシーフェだが、10時過ぎからは晴天。ホテルの窓から見えるエメラルド・グリーンの海が美しい。ただ、海ばかり見とれているわけにはゆかない。今日は朝のうちにリスト原稿を日本に送らないといけない日。通常リスト作成は木曜日なのだが、ブラジルの木曜の朝は日本時間の夜。なので今日のうちに送らないと間に合わない。
 今週のメインは、2枚組の『黄金時代のアフリカ音楽〜西アフリカ篇』(ライス NWR-4001)。ネットワーク・レコードから昨年発売された意欲作だ。文字通り、マリやギネア、セネガル音楽などの黄金時代の音源を集めたアルバムで、ユッスー・ンドゥールやサリフ・ケイタ、ベンベヤ・ジャズなどの古い時代の西アフリカ音楽は当社でもすでに配給していたが、こんな幅広い音源をコンパクトに楽しめる入門篇はなかった。ブックレットは写真満載で、詳しい解説が付いている。その解説は蒲田耕二さんにお願いして訳してもらうことになっているので、楽しみにしていてください。来月19日の発売予定です。

 今日はレシーフェの最終日。今晩の飛行機でリオに帰らないといけない。ただ、ポルト・ムジカール関係の仕事や、北東部でしか出ていないアルバムを集める作業などは昨日までに終わらせることができたので、午後は比較的リラックスできた。午前中にリスト原稿を送信した後は、お昼ご飯までの間に海に行ったり、食事をしたり。その後、ポルト・ムジカールの会場で音楽家たちと少し打ち合わせをした後、主催者たちと会ってお別れの挨拶。夜はフレーヴォ楽団の練り歩く旧市街のレストランで軽く食事をしてから、空港に向かうというスケジュールだ。出発は深夜12時半。リオに着くのは、午前3時だ。早寝早起きのぼくにはちょっとツラい。

 ポルト・ムジカールの会場で音楽家たちと話していて話題になったのが、サンパウロで開かれているU2の公演のこと。モルンビーのスタジアムで7万人も集めて行われたのだそうだ。ストーンズにU2と、カーニヴァル前のブラジルは本当に豪華な来伯ラッシュ。
 ちなみに、ブラジルではU2を<ユー・チュー>と発音。<ユー・トゥー>なんて言っても誰にも通じない。そうそう、ブラジル語発音と言えば、ナソーン・ズンビーが広めたマンギ・ビートは、正式には(?)<マンギ・ビーチ>と発音する。ブラジル語の書き方にこだわる方々はぜひ覚えておいたほうがいい。

 

2月21日(火)

 朝5時半に目が覚めるのは、久しぶりのレシーフェに興奮していたからではなく、単にその時間に夜が明けて、太陽光線が部屋に入ってくるからのようだ。今日も目覚ましがなる前に起床。朝とは思えない強い日差しの中、1時間半ほど海岸を歩いた。今日も汗びっしょりだ。

 いつものように午前中に書きもの仕事を終らせて、午後はポルト・ムジカールに向かう前にCDショップを探索。北東部でしか手に入らない(当然日本にも入ってこない)CDを探してみることにした。思えば26年前にはじめてレシーフェを訪れたときも、リオやサンパウロでは入手できないLPを50枚ほど持ち帰ることができた。今回もそのときとまったく同じだ。3件ほど回っただけなのに、入手したCDは40枚ほど。他にも音楽家本人にもらったものもあるから、合計入手枚数はもう50枚くらいになった。
 そんなCDを見ていて気がついたのが、ペルナンブーコ州など、政府関係の援助を受けて作られたとクレディットされているCDが多いことだ。きっと観光事業に回されるお金のおこぼれが、多少は音楽制作のほうにも回されているということなのだろう。そういうアルバムは、当然のごとくロックなどではなく、伝統的な音楽である場合が多い。これまでレコードに残されることがなかったような伝統音楽がたくさんCDになっているようだ。観光客でこんなものを買ってゆく人がたくさんいるとはとても思えないが、ぼくには非常にありがたい限り。早く日本に持ち帰って、じっくり聞いてみたい。

 レシーフェの街は完全にカーニヴァル・モード。ポルト・ムジカールの会場の近くの通りでもフレーヴォ楽団の行進が毎日のようにあるし、近くの特設ステージでは伝統音楽のコンサートをやっている。今日はすぐ近くでパウロ・モウラとナナ・ヴァスコンセロスが地元のマラカトゥー楽団と共演する公演があるとかでちょっと覗いてみたら、夕方にはすでにたくさんの人たちが集まっていた。
 そんな面白そうなコンサートが身近にあったりすると、ポルト・ムジカールのショーケースなんて、ますます見る人は少なくなってしまう。せっかくヨーロッパからグループが来ているのに、会場はガラガラ。ポルト・ムジカールのためにヨーロッパから来た人たちも、地元の音楽のほうが面白いということで、そっちを見に行ってしまっていたようだ。

 そんな中で、ぼくは疲れを感じたので、コンサートは全部パス。軽く夕食を済ませて、7時過ぎにはホテルに戻ることにした。レシーフェの暑さは、初日は気にならないが、ボディブローのように、だんだんとこたえてくる。観光旅行ならともかく、ぼくの場合は今回も仕事がらみ。明日のことを考えると、無理はできない。

 

2月20日(月)

 久しぶりのレシーフェに興奮したのだろうか。今朝は目覚ましが鳴る前の5時半に起床。海から登る夜明けを見て、たまらなくホテルを飛び出し、波打ち際の散歩をはじめてしまった。たっぷり1時間、波打ち際を歩いてホテルに戻ったときには、汗ビッショリで本当に良い気分。こんなときの朝食はとても美味しい。

 どこの町に行っても、ぼくの生活はそうは変わらない。朝食の後はいつもコンピュータに向かって仕事をする。自宅で使っているコンピュータをそのまま持ってきているので、仕事の進み具合も日本にいるときと同じだ。
 それが終わったのが9時半。ちょうどポルト・ムジカールに行く時間だ。さすがに北東部。外はリオよりずっと暑いし、日差しは強烈。でも、意外なくらい、仕事するのが苦にならない。久しぶりのレシーフェで新しい音楽との出会いを期待しているからだろう。

 ポルト・ムジカールはまだ2回め。ウォーメックスと比べたら参加しているレーベルはものすごく少ない。なにしろスタンドはたったの7つ。しかも午前中にはまったく人がいないのには、ビックリさせられた。仕方ないので、コンファレンスの会場を覗いて、<ブラジル音楽の輸出>をテーマにしたスピーチを聞く。パネラーは全部で3人。どれもブラジル人によるもので、ひとりは文化省の役人のようだった。ただ、ハッキリ言って、どの人もまるでわかっていない。実に現場感覚の希薄な、アタマだけで考えたような論法には、ガッカリしてしまった。そんな簡単にブラジル音楽を輸出できるのなら、ぼくはとっくに大金持ちになっている。新しい知識を得ようと思って聞いた人ならともかく、現実にブラジル音楽の輸出に関わっている人たちは、きっとみんな同じようなことを感じただろう。

 そんなわけで、ぼくは途中で退席してしまったのだが、それが結果的には良かったようだ。というのも、外にはヨーロッパのレーベルに売り込みに来ていた当地の音楽家たちがたくさんいて、そんな人たちとゆっくり話をできたからだ。なにしろ今回のポルト・ムジカールに参加した日本人はぼくひとり。どう見ても外国人のぼくだから、みんな声を掛けやすい(ブラジルは移民の国なので、顔だけ見たら、ヨーロッパ人とさほど違いがない場合が多い)。どの人も独立レーベルで作ったCDを手に、真剣に話をしてくる。ぼくがポルトガル語をできると思わないので、ヘタクソな英語を駆使して一生懸命は成してくれるのだが、その一生懸命ぶりがウォーメックスで会うレーベルの人たちとは圧倒的に違う。でも、それはそうだろう。なにしろ彼らは自分のCDを自分で売り込んでいるのだ。真剣さの度合いが違っても不思議ではない。
 そんなわけで、探さなくても新しいCDサンプルはたくさん手にすることが出来た。さっそく明日の朝あたりに、ホテルで聞いてみることにしよう。CDをくれた歌手のうちひとりは、明日は友人も連れてきてくれると言うし、きっと帰るまでにたくさんのサンプルを聞かせてもらうことになりそうだ。

 そんなコンファレンスの後、仲良しのベチーナさんと、トラーマで当社の担当をしてくれたディヴィッドくんを連れ出して昼食。情報交換をさせてもらった。そして再び会場に戻ったのが午後3時過ぎ。そしたら、会場の目の前の広場でフレーヴォのブラス・バンドが子供たちのダンサーを従えて演奏していたので、仕事を忘れて見に行ってしまった。フレーヴォ楽団は昨日も空港や旧市街で何度か見たが、今日のそれはバンドとしての成熟が全然違う。明らかにプロだ。トロンボーンが2本でトランペットは3本、サックスはアルトとテナーを合わせて4本。そしてチューバと打楽器2人。そんな編成で、同じ曲をフレーヴォ、マラカトゥー、ヴァルス(ワルツ)とリズムを変えて演奏したり、なかなかに凝ったアレンジを楽しませてくれる。ダンサーたちも子供たちばかりなのに、大人顔負け。フレーヴォ独特のアクロバティックなダンスをたっぷり見せてくれたのには、嬉しくなってしまった。
 こんな楽団がいきなり広場で演奏しているなんて、どうしてだろうと思っていたら、理由はすぐにわかった。ポルト・ムジカールをブラジル側で主宰するレシーフェの市長たちとともに、ジルベルト・ジル文化大臣がやってきて、ここでスピーチをすることになっていたのだ。そのテーマは<フレーヴォ100年>。ぼくは知らなかったが、今年はフレーヴォが誕生して100年を記念する年だったらしく、カーニヴァル後の3月にその式典があるのだそうだ。
 そのジルベルト・ジルは、予定時間を大幅に遅れて登場。レシーフェやオリンダの市長たちと一緒に広場に入ってきたのだが、他の人たちがみんな正装なのに対して、ジル大臣だけがサンダル履きにTシャツ。でも、このほうがかえってジルがいることがわかりやすい。
 なんでもジル大臣は、3日前にはリオでローリング・ストーンズに会い、昨日はサンパウロで公演をするU2のボノに会っていたのだとか。そんな会見を終えて慌ててレシーフェにやってきたのだそうで、さすがにその表情は疲れが見えていた。でもそんなジル大臣も、スピーチになるとシャキッとして話しはじめる。内容も、朝に聞いた文化庁の役人なんかとは全然違う、すばらしいものだった。親しみやすく説得力があるのがジル大臣のスピーチで、さらに自分がフレーヴォを勉強し、曲を作ったときの経験談を織り交ぜながら話してくれるので、音楽好きには興味深い。ここでわかったのは、ジルが知識人たちに向かってではなく、街角のおじさんやおばさんに向かって話しかけていたことだ。話がわかりやすいのは、そのせいなのだろう。ジルがこんな立派な政治家になっていたことを、ぼくは今回はじめて知った。

 夕方からはそんなジルをまじえて、会場でパネル・セッションが開かれていた。ただ、これは今年の秋にドイツで開かれる音楽見本市ポップコーンの宣伝で、ジルが借り出されたのは、その調印式をテレビ中継したかったかららしい。ジルはテレビ・カメラを前に笑顔でサインしていたが、こんなことは大臣室でやればいいことで、わざわざレシーフェまで来てやる必要はまったくない。有名人のジルだから、こうなったのだろう。大臣というのは、本当に大変な仕事だ。

 そんなポップコーンの主催者の話を聞いていて気がついたのだが、どうもドイツ人は、ワールドカップの決勝はブラジルとドイツになると思い込んでいるらしく、だからワールド・カップの後で開かれるポップコーンは、ブラジル音楽中心の祭典になるのだそうだ。でも、そんな予定を立ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか。たしかにいまのブラジル代表は強いけど、でも歴史を紐解いてみれば、前評判があまりに良かったときは、だいたい途中で負けている。今回だって、そうならないとは、誰も保障できない。
 つい最近、ベテランのカフーがケガをして参加が危ぶまれているが、ぼくはあと何人かケガ人が出て、危機感を増したくらいのほうがブラジル代表には良いのではないかと思っている。ロナウドやロベカルがいないくらいのほうが、ロナルジーニョはチームを仕切りやすいだろう。だいたい、いまのブラジル代表の全員が揃ったら、強すぎて、チーム・ワークなんてものを誰も考えない。前評判が良かったときにダメだったのは、いつもそんな理由だったはずだ。
 なんてことを、会場で友人と大声で話していたら、回りのブラジル人たちに思い切り睨まれてしまった。決勝なんかの前に、日本代表がブラジルと予選で当たることを、すっかり忘れていました…。

 夜はショーケースが開かれていたが、ちょっとずつ見たものの、今日の出演はカスばかり。全然面白くないので、途中で会場を離れてしまった。でも、カーニヴァル前のレシーフェの街は、ショーケースなんて見なくても、他の音楽に溢れている。フレーヴォ楽団の行進、そしてマラカトゥー楽団の練習と、今晩も街の音楽が目白押しだ。それらをたっぷり楽しんで帰宅したのは夜の11時。明日も朝から仕事がある。ビールを一杯だけ飲んで、今日も早く寝ることにした。

 

2月19日(日)

 今日もリオはすばらしく良い天気。美しい夜明けを楽しむことができた。朝は恒例のウォーキング。たっぷり汗をかいて、シャワーを浴びたら、肩から背中にかけて少し日焼けしたようで、タオルで拭くと少し痛い。さすがにリオの日差しは冬の日本からやってきたぼくには強すぎたようだ。少し気をつけないといけない。

 朝のうちに仕事をすませて、お昼過ぎの飛行機でレシーフェへ。いよいよ今晩からポルト・ムジカールのスタートだ。今回は、一人旅ではなく、ブラジルの取り引き先であるムジカゼスのマルクスくんが同行。ヨーロッパへの輸出をもくろむ彼を少し助けてあげないといけない。
 午後2時半に到着。なんと空港で、いきなりフレーヴォのブラス・バンドと可愛らしい女の子たちのダンスを見ることになったのにはビックリさせられた。もちろんこれはカーニヴァルの宣伝。観光事業の一環なのだろう。レシーフェ市はカーニヴァルを観光資源にしようと躍起になっていることは知っていた(だからポルト・ムジカールを誘致した)が、空港でこんな粋なお出迎えがあるとは知らなかった。女の子たちはまだ10歳くらいだろうか。傘を持ってアクロバティックにフレーヴォを踊る姿は、本当に可愛らしい。

 思えば、ぼくがはじめてレシーフェを訪れたのは1981年。ちょうど25年前ということになる。ただ、そんな時間が経過した割には、レシーフェは当時の面影を強く残しているように感じられた。変わったのは、観光の中心地であるボア・ヴィアージェン海岸に近代的なホテルがたくさん建ったくらいだろうか。でも市街地、特に旧市街の町並みは、ほとんど25年前のままだ。なにしろレシーフェは北東部で唯一独自のショーロを持つ町。それは都市として古い歴史を持っているので、そんな伝統は簡単に失われるものではないということなのだろう。空港で聞いたブラス・バンドの演奏にも、そんな古い町で生まれた音楽ならではの奥ゆかしい洗練がたっぷり感じられた。それがレシーフェのもっともすばらしいところだ。マンギ・ビートだけがレシーフェではない。

 そんなレシーフェの変わらぬ町並みに安心した後、遅い昼食。そして少し休んで、夜はさっそくポルト・ムジカールの会場に行ってみることにした。今日はオープニング・パーティだけで、仕事は何もない。でも、せっかく今日着いたのだから、参加している人たちと挨拶くらいはしておこうと思ったからだ。会場に入ると、ウォーメックスで何度も会っている友人たちが顔を揃えている。南国にいるせいか、ヨーロッパで会ったときより、ずっと朗らかな印象を受けた。きっとぼくの表情も、そうなのだろう。彼らに挨拶した後、会場を散策してみると、ウォーメックに比べたら格段に規模は小さい。でもその分、より親密的に感じられる。そんな朗らかさ、親密さが、ポルト・ムジカールの特徴のようだ。

 そんな中ではじまったオープニング・コンサートでは、女性歌手のヴィルジニア・ロドリゲスが出演。その後は、取り引き先のミスター・ボンゴのデイヴィッド社長がステージに上がって、自らDJを楽しませてくれた。わざわざ北東部の音楽ばかりをかけていたところは、いかにも場を考えた、彼らしい選曲だ。
 さらに会場の外からは、フレーヴォ楽団のブラスの音も聞こえてくるし、マラカトゥー楽団のパーカッションも聞こえてくる。レシーフェではもうカーニヴァルがはじまっているようだ。明日からは、ポルト・ムジカールでの仕事が終わったら、こんな街の音楽も楽しめるのだろうか。そう思うと、なんだかワクワクしてくる。25年ぶりのシーフェの夜は、とても楽しく過ごすことができた。

 

2月18日(土)

 目覚ましを鳴らさなくても午前5時半に起床。せっかくリオに来て、イパネーマ海岸の近くに宿泊しているのだから、朝は恒例の砂浜歩きをしないと気がおさまらない。身体がそれを欲していたようだ。そんなわけで、まずは海岸の端から端まで波打ち際をウォーキング。たっぷりかいた汗をシャワーで流して朝食。その後は、さっそく原稿書きなどの会社仕事。9時過ぎからはエンリッキ・カゼスくんと今年のプロジェクトの具体的な日程などについて打ち合わせ。そして12時からは、明日からのレシーフェ旅行で必要なものを買い物…という感じで、お昼過ぎまでには予定された仕事の大部分は終わらせることができた。

 午後はホテルのレストランで昼食。宿泊しているアルポアドール・インは小さなホテルだが、そのレストランは魚料理が美味しいところとして知られているそうで、せっかくだから今日はそのレストランを試してみることにした。お勧めは、海老を根菜類やトマトと一緒に煮たような料理(カルドという、スープとマンジオッカ粉を混ぜた料理も付く)。ぼくが昔から好きな料理のひとつだが、たしかにここでのそれは最高だ。冷房が効いた室内ではなく、海岸にテーブルを出してもらって食べたのだが、ピメンタ(唐辛子)がほどよく効いているせいか、暑いのにどんどん食べられる。ピメンタのせいか、まるで東南アジアの料理を食べているような気分になった。
 そういえばもう10年ほど前、日本にやってきたクァルテート・エン・シーの皆さんをタイ料理のお店に連れて行ったら、故郷のバイーア料理に似ているといって、喜んでもらえたことがあった。遠く離れたアジアの料理とバイーア料理が似ているなんて、そのときは不思議に思ったが、よくよく調べてみたら、唐辛子はカリブ原産。世界各地の料理に使われるようになったのは、たった500年くらい前からだ(コロンブスの<発見>以後)。そうして世界各地に生まれた<新しい料理>が、それぞれ似ているところがあっても、不思議はないのかもしれない。唐辛子の伝播から生まれた新しい料理の分布は、世界各地のポピュラー音楽の形成の歴史ととてもよく似ている。

 ローリング・ストーンズのコンサートのせいで、ホテルの前の道は交通規制。タクシーとバス以外、入ることが出来ない。そんなわけで、夕方になると、そんな道をコパカバーナに向かって歩いてゆこうとする人たちが溢れはじめる。きっとすごい数の人が集まることになるのだろう。
 そんな人並みにウンザリして、コンサートは予定通り、テレビで見ることにした。
 思えば、ストーンズの公演を見るのは、彼らの最初の来日以来。すごく久しぶりだが、たった1回の公演ということで、ミックをはじめ、みんなスゴく気合が入っているようで、思った以上にすばらしい演奏を楽しむことができた。今回はアディショナル・メンバーが少ない、素に近い演奏ぶりだったが、そのせいか、ミックのすぐ後ろで演奏しているキースとロンのギターの絡みなんて、かつてのジノとメイラとカニョート(ベネジート・ラセルダ楽団〜カニョート楽団)のコンビネーションを思い出させた。シンプルなのにコクがある。言葉では表現できない絶妙の間、と言えばいいのだろうか。ジノたちも長年一緒に演奏してそんな境地に達したのだが、ストーンズはそれを、小さなクラブでなく、野外の大コンサートで聞かせてくれるのだから、スゴい。ストーンズを見てジノたちを思い出すなんて、東京でなく、リオで見ているからだろう。こういう経験もたまには良いものだ。

 

2月17日(金)

 ニューヨークからサンパウロを経由してリオ・デ・ジャネイロに到着したのは、やっと午後1時半。いつも通り、ヘトヘトに疲れる長旅だった。ベト・カゼスくんが空港に迎えに来てくれたおかげで、これ以上疲れずにすんだのは幸い。さっそくホテルにチェック・イン。シャワーを浴びて、ベトくんと昼食に繰り出した。リオはここのところ雨が続いていたそうだが、今日はすばらしい晴天だ。しかもホテルは「イパネマの娘」で有名はイパネーマ海岸の目の前。これでビールを飲むなというのは無理がある。というわけで、久しぶりに昼間からビール。すっかりブラジル・スタイルの生活パターンだ。それにしても、ブラジルの生ビール(ショッピ)はいつ飲んでもとても美味しい。

 サンパウロの空港のテレビでニュース番組を見ていたら、今朝早くにローリング・ストーンズのメンメンがリオに到着したのだとか。彼らは明日、コパカバーナ海岸で大フリー・コンサートをやることになっているのだが、その盛り上がりぶりは予想した以上のようで、彼らが宿泊するコパカバーナ・パレス・ホテルの前にはもうたくさんのファンが待ち構えていたのだそうだ。ちなみに、明日は彼らのコンサートがはじまる数時間前から、コパカバーナは交通規制がしかれる。そうなるとタクシーとバスしか入れない。交通が遮断されて、身動きがまったく取れなくなる。そこで今回はコパカバーナではなく、イパネーマにホテルを取ってもらったのだが、結局このホテルの目の前の通りも交通規制がなされるそうで、あまり状況が変わらないことがわかった。これまでにない大規模なコンサートになるはずなので、何が起きるか、誰も予想がつかない。ぼくも見に行ってみようと思ったが、いつ帰ってこれるかわからないコンサートを仕事の旅で見るわけにはゆかない。テレビ中継を楽しんだほうが無難なようだ。

 明日のローリング・ストーンズも楽しみだが、ぼくにとって今回のリオ滞在でもっとも重要だったのが、本の買出し。ブラジル音楽の新作CDは当社でも入荷しているので、ほとんどフォローできているが、本のチェックは最近おろそかになっていた。それを今日のうちに片付けることにしようと思ったわけだ。
 思えば、ぼくがブラジルをはじめて訪れた25年前には、ブラジルで出ていた音楽の本なんて微々たるもので、だから古い重要な本はほとんど入手することができた。でも最近は、音楽の本を出す出版社が増えたのか、いきなりたくさん出るようになって、全然フォローできていない。そんな買い逃した本を、今回はまとめて買って揃えておこうと思ったのだが、本屋さんを何軒か回って買っていったら、これが結構な数。結局は欲しいものを全部は買うことができなかった。それでも今日入手した本は20冊近く。中には大きな本もあるので、相当な重さだ。これらをどうやって持ち帰るか、帰国する日は頭を悩ませることだろう。

 そんな買い物を済ませてから、再びホテルの近くのバールに寄って、ベト・カゼスくんとビールを飲みながら歓談。夕方からは、レコーディングの仕事を終えたエンリッキ・カゼスくんもやってきて、さらに盛り上がった。彼らと一緒に仕事をやるようになって、今年でちょうど20年。どこかでこれまで一緒に仕事をしてきたサンバ音楽家たちを集めて20周年記念コンサートをやろうという話もあったのだが、そういう企画はもっと年を取った後にでもやればいいと言って辞退。それよりもいまは、もっともっと先の仕事を進めてゆくべきだ。これまでもさまざまな仕事で協力してきたが、今年もさらにいろいろな企画があって、彼らとは一緒に仕事をする機会が多くなりそうな気配。そのためにぼくがブラジルに来ることはなさそうだが、友人や仕事のパートナーというのは、こうしてたまに会うくらいのほうが、交流は長続きするものだ。今年もそんなスタンスを保ってゆけば良いのだと思う。

 長旅で疲れたこともあって、夜9時にはホテルに戻って、早めに就寝。明日はやるべきことがたくさんある。頑張らないと。

 

2月16日(木)

 朝早く起きて旅行の準備。それから会社に行って、支払いや事務仕事を片付け、ぼくがいない間の仕事を社員たちと確認してから帰宅。リスト原稿などを終わらせて、空港に向かった。前回のブラジル旅行で預けた荷物が出てこなかったので、今回は荷物を極力少なくして、全部機内持込にすることにした。実はブラジルには、前回買った夏物のシャツなどをたくさん置いているので、着るものはほとんど持ってゆく必要がない。なのでカバンに入っているのはパソコンとCDプレイヤーなど、仕事で必要なものばかり。こんなに軽いカバンで旅行に出るのははじめてだ。

 今回の便はニューヨーク経由。ニューヨークでは4時間以上も待たないといけないから、ウンザリさせられる。ニューヨークは、つい最近豪雪で空港閉鎖になったのだそうだが、町にはそんは雪が少し残っていた。寒そうなので、とても空港の外に出る気がしない。

 

2月15日(水)

 明日からブラジル旅行。今日は中途半端になっていた仕事を終らせておかないといけないので、いつもの旅行の前日と同様、慌しい一日になった。ただ、慌しいと言っても、以前ほどではなくなったかもしれない。注文を取ったり、出荷をしたり、という仕事は、もはやぼくなんかがいなくても会社は完全に機能しているし、最近はリストや解説原稿だって、ぼく以外のスタッフが書いたものも多い。ぼくが頻繁に外国に出てしまうせいで、社員はすっかり仕事ができるようになった。

 

2月14日(火)

 なんともポカポカ陽気。いきなり春が来ちゃったんじゃないかという感じだが、この後に急に寒くなったりするものだから、この時期は風邪を引きやすいのだろう。ぼくもまだまだ風邪が抜けきらず、本調子じゃない。

 お昼までに解説原稿をなんとか1本脱稿。午後はもう1本の原稿に取り組む。その間に、これまでアップするのが遅れていた数日分の日記をまとめてみた。ここのところ体調が悪いのに忙しいのが重なって、日記どころじゃなかったということもあるが、それにしてもこんなに何日もアップできなかったのははじめてだ。ご心配をおかけして、申し訳ございません。

 

2月13日(月)

 朝は解説原稿の準備。そして昼からは税理士さんと打ち合わせ。これでやっと決算が終了した。結果は、もちろんここで詳しくは書けないけど、昨年より少しだけ売り上げが上がり、コストは大幅に削減できたという感じ(これは単にぼくの給料が大幅に少なくなったからだけど)。これで2月末に支払う消費税など税金の金額も出たし、少し落ち着いた気分だ。

 帰宅後、少し仕事をしようと思ったが、ゾクゾクっと寒気がしたので、メールの返信などをしておしまいにした。こういうときは温かいものを食べて、早く寝るしかない。

 

2月12日(日)

 今月16日から久しぶりにブラジルを旅行する。今回はレシーフェであるウォーメックスの出張見本市ポルト・ムジカールに参加するためだが、今日はその旅行準備に明け暮れてしまった。別に用意するものはたいしたことがないのだが、せっかくブラジルに行くのだから、会っておかないといけないレーベルやミュージシャンはたくさんいる。彼らにメールで連絡するだけでも、けっこうな仕事だ。日曜だというのに、中にはすぐにお返事をくれる人もいたりして、そのお返事を書いたりしていたら、すぐに夕方になってしまった。まあ、最近買ったCDをまとめて聞きながらできたので、あまりストレスは感じなかったが。

 そんな仕事の合間を縫って、昼間に面接を一件。先にこの日記でアルバイトを募集したのだが、さっそく応募があったので、会ってみることにした。とりあえずバイトとして、来週あたりから来てくれるようだ。頑張ってくれることを期待したい。

 

2月11日(土)

 久しぶりに完全休養。風邪気味ということもあるけど、身体の芯まで疲れてしまった感じで、今日はさすがに仕事をしようという気になれなかった。

 そんなわけで、朝から洗濯、掃除、食材の買出しなどに精を出したのだが、その後に台所の棚を整理していて気がついたのが、お鍋がもうひとつあったこと。昨年末、お鍋を新しく買ったとこの欄で書いたけど、どうもその前にももうひとつ買っていたらしい。ただ、すっかり忘れて、しまいこんでしまったようだ。しかもそちらのほうが使い勝手が良さそうなことを、今日になって発見したからタイヘン。これじゃ、これからますますお鍋を食べることが増えてしまうかもしれない。

 夜は池波正太郎の『食卓の条件』『池波正太郎の食卓』などを拾い読み。最近、食べることしか考えてない?

 

2月10日(金)

 恒例の雑用処理。さらに来週には仕上げないといけない解説原稿の準備。それで一日が終わってしまった。体調がいまいちのせいか、どうも仕事をたくさん消化できない。

 

2月9日(木)

 リスト作成日。サンプル盤は思ったほど来ていなかったので助かった。なお、今週のメインは南アフリカのマホテラ・クィーンズスペインのアンパラノイアだ。前者はクリスチャン・ムセさんのマラビ・レーベルから。後者は英ラスからだ。クィーンズのお姉さんたちは、いまも元気一杯。このまま来日して欲しいくらいの力の入った歌いぶりだ。ともに3月に入ってからの発売なので、忘れないでいてくださいね。

 ただ、それらのライス盤のリスト原稿は昌くんにまかせて、ぼくが今日取り組んだのは、ブラジル音楽の新譜とテレサ・テンのライフ盤復刻CDシリーズ。ブラジル盤もエリス・レジーナの未発表音源を集めたCD!!がメインだし、最近はどうしても古い音源の復刻のほうに面白そうなものが多いのが困りものだ。エリスのアルバム、古い音源が多いようだから、面白いかもしれない。

 夜は久しぶりに蒲田耕二さんと打ち合わせ(というか、飲み会)。蒲田さんとはこれまでも定期的にお会いして西川口とかで飲んでいたんだけど、今回は久しぶりに自宅に来ていただいた。この方が安く済むし、好きなものを食べられる。もちろん、ぼくが作ったものを食べていただいたわけで、楽しんでいただけたかどうかはわからないが。

 ご存知のように、蒲田さんはもともとシャンソンが専門だし、フランス語はバッチリできる。そんな蒲田さんに確認したかったのが、フランス語の発音のことだった。先にフランスに行って以来気になっていたのだが、フランスでは、RをブラジルにおけるRとほとんど同じように発音する。スペイン語やイタリア語のように舌を強く巻くのではなく、軽くさらりと巻く感じだ。要するに、日本人だったら、特にブラジル語を粋にカナ書きするような先生方には、まるで<ハ>行で書きたくなるような音に聞こえるのが、フランス語のRなんです。
 そのことを蒲田さんに確認したら、やはり北部のほうではそういう発音になるとお話してくれた。ブラジルでも、南部に行くと、Rはスペイン語並みに強く巻くのだが、そのあたりはフランスでも同様で、そんな地域差があるせいか、誰もこれまでRを<ハ>行で書くような人はいなかったということらしい。
 確かに、エリス・レジーナを<エリス・ヘジーナ>なんて書く調子でフランス語をカナ書きされたら、パリは<パヒ>になってしまう。当社の取り引き先のマラビは<マハビ>だし、有名なシャンソン「ラ・ヴィアン・ローズ」は「ラ・ヴィアン・ホーズ」だ。これじゃ、相当な混乱が予想される。そんなことを誰もしなかったフランス語関係の人たちは、いたって正常だったということだろう。反対に、ブラジル語でエリス・ヘジーナとか書いて喜んでいる人は、これくらい混乱をきたすことをしているということになる。この論理で行くと、パリはパヒですよ。それがどこだかわかる日本人はいなくなってしまうでしょう。
 何度も書くけど、いくら日本人に<ハ>行に聞こえても、それは<ハ>行ではなく、あくまでRの発音の微妙な違いでしかない。例えば、スペイン語のロベルトとポルトガル語のロベルトはまったく同じ名前であって、英語のロバートも同じだ。それをポルトガル語の場合だけ、ホベルトなんて書いたら、話をややこしくしているだけ。世間一般とわざわざ遊離するための表現でしかないということです。

 

2月8日(水)

 体調は相変わらずだが、なんとか朝のうちに解説原稿を書き上げる。ケケレの新作、これで週末にはなんとかお店に並びそうだ。しかし、こういう熱があるときに書く原稿が、ケケレで助かった。もしもロック系の緊張感のある音楽だったら、とても何度も聞き返す気にはならなかっただろう。ケケレなら、熱があっても聞ける。それだけ優しい音楽だということです。彼らの魅力を改めて実感することができました。

 解説を書き上げた後は、薬を飲んで再び睡眠。明日はリスト作成日なので、聞かないといけないサンプルやチェックしないといけない資料がきっと山積みになっているだろう。明日は何があっても体調を戻さないと。

 

2月7日(火)

 朝から体調が思わしくない。理由はわかっている。最近はほとんど夜に外出しないぼくが、一日おきに外出し、しかも適量を超えて飲んでしまったからだ。それに、ここのところしばらく休みをとっていなかったし、そろそろ身体が悲鳴を上げはじめたということかもしれない。
 そんなわけで、今日は事務所には行かず、できるだけ身体を休めることに集中した。明日は何があっても解説原稿を書き上げないといけないので、その準備だけはしっかりして、温かいものを食べて早くに休むことに。もちろん、外国からのメールのやりとりなどは、こういうときでも休めないので、完全休養というわけにはゆかないが、それでもゆっくりできたほうだろう。こういう日に限ってアレコレと問題が重なって、ややこしいメールをたくさん送られてきたのは困ったが、熱が出てアタマがあまり回らない分だけ、簡単に先送りできる。取り引き先関係のややこしい問題は、早く解決しようと思っても、これまであまりうまくゆかなかったことが多いし。

 

2月6日(月)

 朝のうちに雑用仕事を済ませて午後から事務所に。こちらでも主な仕事は雑用。メインはナンと言っても部屋の片づけだ。たまっていたサンプル盤を整理し、さらに昨年の経理関係の書類も箱にまとめて、やっとスッキリした状態になってきた。経理関係の書類は、まだ決算が終わっていないのでしまい込むわけにはゆかないけど、箱に収まっているだけでも、なんとなく落ち着く。サンプル盤も同様で、たまには整理しないと、どれが新しいものなのかすら、わからなくなってしまう。

 そんな感じで片付いたところで、夕方から宮川くんの送別会。今回は浅草の<あらまさ>でやることにした。少々お金がかかってしまったが、相変わらずお酒も料理も美味しいし、ゆっくりした雰囲気で飲めるところがいい。飲み終わってから帰宅するまでに時間がかかりすぎるところだけが難点だけど。

 

2月5日(日)

 朝帰りなんて、本当に久しぶりだ。疲れ果てて、やっと自宅に戻ったのは朝7時。それから目覚ましもかけずに、すぐに布団にもぐりこんだ。でも、なぜか12時にはお目覚め。疲れすぎていると、なぜかたくさん眠れないものだ。こういう日は一日中ボケッとした気分でどうしょうもない。まあ早い話、飲みすぎたということなのでしょうけど。

 

2月4日(土)
 
 朝5時に起きて、すぐに会社へ。今日は税理士さんと打ち合わせの予定が入っているのだが、タイヘンだった決算資料のほうはなんとか揃えたものの、まだ帳簿の整理が一部終わっていなかった。税理士さんが来るまでにそれを終わらせておかないと。夢中になって数字と格闘して、それがなんとか終わったと思ったら午前10時過ぎ。ちょうどピンポンと呼び鈴がなって、税理士さんが到着。

 そんなわけで、午後は完全に疲労モード。ただ、昨日終わらせることができなかった雑務や、新しい独自制作アルバムの選曲などをやらないといけない。自宅に戻って、ひたすら仕事に打ち込んで、気がついたら午後8時。もう外出しないといけない時間だ。

 というのも、今日はエル・スールで買い物をした後、原田さんと打ち合わせをすることになっていたのでした。原田さんとお会いするのは、本当に久しぶり。遅い時間に行ったもので、他にお客さんもなく、ゆっくりお話ができた。その後、近くの飲み屋さんで一杯。ここですっかり調子に乗ってしまい、結局朝の5時まで飲み会が続くことに。徹夜で飲んだのなんて、本当に久しぶりだ。

 

2月3日(金)
 
 金曜日はいつもの通り、残務仕事。朝からひたすらメールの返信。取り引き先各社と今後のリリース予定の確認などをしていたら、もう午後3時になってしまった。それから、途中で止まっていた制作アルバムの選曲の続き。それから夜まで頑張って、なんとか納得できる内容に近づけることができた。後は音のチェックだ。

 

2月2日(木)

 今日はリスト作成日。宮川くんが退社しちゃったので、それぞれの担当の分担が増えているからタイヘンだ。ぼくも自宅の仕事を早めに切り上げて、早い時間に会社に行ってリスト原稿書き。それを終わらせたら、午後には旅行代理店でビザ取得の手続き。さらに夕方から夜にかけては決算のための資料の最終確認と、大忙しで過ごした。

 そんな忙しい一日だったから思いついたわけではないが、当社ではアルバイトを募集したいと思っている。当面働いてもらいたいのは、毎週火曜日から木曜日までの3日間。出荷作業の手伝いが主な仕事だ。なので、体力のある若い人がいいと思っているのだが、もちろん音楽好きじゃないと、CDの出荷なんて、全然面白い作業じゃないだろう。当面はバイト待遇だが、仕事ぶり次第では、社員への昇進も考えてもいいと思っている。
 もしも当社で働いてみたいと思う人がいたら、メールか郵送で応募してみてください。こちらから面接の通知を入れます。なお業務に支障をきたすので、電話での応募はご遠慮ください。電話してきた人は絶対に採用しません。

 

2月1日(水)

 さあ、今日から2月だ。1月も忙しかったが、2月も海外出張があるし、3月にリリースを予定している独自制作アルバムの仕上げ作業もあるので、やることは山ほどあるし、書かないといけない解説原稿もタンマリ。さらに同時進行でライスUKの新作も2タイトルくらい作ろうと思っているので、きっと目が回るほど忙しくなるだろう。

 普通にやっていたら、当社の仕事なんて、それほど忙しいわけではないと思う。解説を外注してしまえば、ぼくの仕事なんてどんどん少なくなる。ただ問題は、当社がもともと輸入や配給を専門とする会社としてスタートしたわけではないので、外国の取引先から送られてくる新作アルバムをただ配給していれば良いという気分には、なかなかなれないことだ。解説原稿書きは、手間のかかる仕事だけど、長年ライターをやっていたせいか、これをやっていないと仕事をしている気がしない。また独自制作盤なんて、忙しくなるばかりで全然儲からないけど、それでも止めようという気になれないのは、自分たちだけの商品に対するこだわりが強いせいなのだろう。早い話、輸入や配給の仕事ばかりに追われていると、どうも精神衛生上、よくないんです。

 

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