ルーツ・ロッキング・ジンバブウェ
~ザ・モダーン・サウンド・オヴ・ハラレ・タウンシップス 1975-1980

Analog Africa主催サミー・ベン・レジェブ執筆のライナーノーツの拙訳を紹介

『Roots Rocking Zimbabwe』ライナーノーツ

文:サミー・ベン・レジェブ(Analog Africa)/2024年夏

 私がこのプロジェクトのカヴァーに、オリヴァー・ムトゥクジ(1952-2019)のファースト・アルバム『Ndipeiwo Zano』を使うことにしたのは、やはり偶然ではなかったと思います。このアルバムは、1977年から78年にかけてオリヴァーが録音したヒット曲を、南アフリカの伝説的プロデューサー、ウェスト・ンコシがまとめて1枚のLPとして編纂したものでした。収録曲の多くは、当時ローデシアと呼ばれていたジンバブウェで激しく続いていた解放戦争のさなかに録音されたもので、いわゆるチムレンガ・ソングとして位置づけられています。「チムレンガ(Chimurenga)」とは、ショナ語で「闘争」を意味する言葉で、このタイプの楽曲は、戦争の中で自由を勝ち取ろうとするゲリラ戦士たちへの支持を人々に呼びかける目的で作られたものでした。
 私は1990年代半ば、Analog Africaというレーベルを立ち上げるよりもずっと前に、この音楽────そして「自由を求めて戦うアフリカ人たち」のビジュアル的な世界観────に心を打たれました。「いつかレーベルを作ることがあれば、最初のリリースは『Ndipeiwo Zano』にする」と、確信を持った私は、会社を辞め、ヨハネスブルグ行きのチケットを買い、そこからジンバブウェの首都ハラレ行きのバスに乗り込みました。
 1996年12月、日曜の午後にハラレに到着した私は、現地の新聞に掲載されていた告知を頼りに、オリヴァー・ムトゥクジのライヴへと直行しました。当時、彼のバンドメンバーの何人かはエイズによって短期間のうちに亡くなっており、オリヴァーはバンドなしの状態でしたが、それでも2ndストリートにあるテレスケイン・ホテル(Terreskane Hotel)から契約を得ており、毎週日曜、30人ほどの観客がバーベキューを囲みながら、アクースティック・ギターを抱えた国民的ミュージシャンの演奏に耳を傾けていました。私はそれからというもの、毎週日曜のたびにテレスケインを訪れました。やがて、オリヴァーに直接話しかける決心をし、「あなたの最初のアルバムをライセンスさせていただけませんか?」と持ちかけました。私の話を聞いた彼は、レコードとまったく同じあの声で、こう答えてくれました。
「いいですよ。準備ができたら知らせてください」
 
 星の巡りが揃ったような感覚があり、私はようやく本気で動き出す覚悟ができたのです。
 
 私はすぐに気づきました。本気でレーベルを立ち上げたいのであれば、たった1枚のアルバムだけでは足りない、と。後に続く作品を探さなければならない。でも、どこで?どうやって?まったく見当もつきませんでした。私の初期の“アフリカ音楽発掘の旅”は、ロマンチックなものとは程遠いものでした。今でもよく覚えています。ハラレ郊外のいわゆる「高密度地域(ハイ・デンシティ・エリア)」で、丸一日レコードを探し歩いたあと、手に入れたのはキズだらけで聴けない7インチ盤1枚だけ。その帰り道、“チキン・バス”に揺られながら、落胆して座っていたのです。その後、私は少し工夫を凝らし、現地の新聞『Herald』にレコードを探している旨の広告を出してみました。でも、それもまったく効果がありませんでした。
 そして数年が経ったある日、ついに“当たり”を引き当てる瞬間がやってきたのです。ジンバブウェ第2の都市ブラワヨにある「Revival in Sound」という店に立ち寄ったときのことです。かつてはレコード店だったその店は、今では刷毛や金槌、バケツなどが雑多に並ぶ日用品と金物の店になっていました。けれどもなぜか、レジ横の片隅には、数百枚の7インチ・シングルが並んだ棚だけが残されていたのです。私はそこからいくつかのレコードを選んでいたのですが、それまでしかめっ面で私を無視していた店主のミスター・アフホク(Mr. Afhok)が、ふいに近づいてきて、こう尋ねてきました。
「もっと欲しいか?」
「はい」と答えると、彼は従業員に何やら指示を出し、私はそのまま店内で待機することにしました。およそ1時間後、トラックが店の前に到着し、大量の箱を積んで停車しました。私は冗談まじりに「この箱全部がレコードだったら夢みたいですね」と言いましたが、その夢は現実になりました。店のスタッフ総出で、すべての箱をトラックから降ろすのに30分以上かかったのです。私はそのまま「Revival in Sound」に“籠もり”、丸1週間かけてレコードを精査しました。発掘したレコードは丁寧に梱包し、ハラレ行きのバスに積み込みました。オリヴァー・ムトゥクジと再会し、ライセンスについて話をするためです。それは2001年10月、私たちが最初に出会ってからほぼ5年が経っていました。その間にオリヴァーは、南部アフリカ全域で名声を得るスーパースターとなっていました。しかし、彼のマネジメントはこう言いました。
「現在、彼の音楽には非常に多くの関心が寄せられており、無名レーベルに彼のファースト・アルバムをライセンスするのは難しいのです」
私は当然ながら落胆しました。けれども、「こぼれたミルクを嘆いても仕方がない」と自分に言い聞かせ、発掘を続けました。そしてある日────音楽の神様が贈ってくれたような、小さな狂気じみたカセットテープに出会いました。タイトルは『Chipo Chiroorwa』。それはThe Green ArrowsのファーストLPであり、やがてAnalog Africaの最初のリリース作品となるものでした。
 このアルバムのライセンスを取るため、私はZMC(Zimbabwe Music Corporation)を訪ね、Green Arrowsの音源の権利が同社にあるのかを確認しました。そこで出会った営業マネージャーのクリス・マラクルワ(Chris Marakurwa)と私はすぐに仲良くなりました。私は毎回のように彼にこう頼んでいました。
「レコードを見つける手助けをしてくれませんか?」
 そのやりとりはふたりの間の冗談のような習慣になっていきました。ところがある日、まるで雷に打たれたかのように、クリスは急に本棚をごそごそと探し始めました。彼の記憶に浮かんだのは、Zvishavane(ズヴィシャヴァネ)という鉱山町にあるParmar Storesという店のことでした。そこは、数百人の鉱夫たちのために大量のレコードを注文していた場所だったのです。彼はやがて、まるで古代の遺物のような、4桁しかない電話番号を見つけ出し、かけてみました。
なんとその電話はつながり、しばらくの会話のあと、クリスは受話器を手で覆ってこう聞きました。「いつ行ける?」
 友人のマイク・カフェングウェ(愛車はフォード・レーザー)に相談したところ、翌日一緒に“鉱山”まで同行してくれることになりました。到着してみると、私たちは言葉を失いました。Parmar Storesの建物は、まるで飛行機の格納庫のような形をしており、右側の壁に沿って、25枚入りの7インチ・シングルが詰まった箱が並ぶ巨大な棚が連なっていたのです。おそらくその多くは、何十年も前に納品されて以来、一度も開封されていない状態でした。そこに詰まっていたのは、以下のようなバンドの音源です:
The Acid Band/New Tutenkhamen/Hallelujah Chicken Run Band/Wells Fargo/Mawonera Superstars/Eye Q/The Green Arrows/その他、数えきれないほどのジンバブウェのアーティストたち…マイクの車のトランクと後部座席はレコードでぎっしりになり、帰り道の途中で車の中軸が折れてしまいました。私たちはグウェル(Gweru)の町で立ち往生することになりました。翌朝には、The Green Arrowsの創設者ゼクシー・マナツァ(Zexie Manatsa)との非常に重要な面会が控えていたため、マイクは「ハラレまではヒッチハイクしたほうがいい」と助言してくれました。私は夜明け前にハラレに到着し、ホテルでシャワーを浴び、急いでゼクシーのもとへ向かいました。私の人生で初めてのインタビューを行うためです。これが、2002年2月6日のことでした。
 その後私は、渡航費を節約するために2001年からドイツの航空会社で客室乗務員として働くようになり、2005年までの間、可能な限りの機会を使ってジンバブウェに通いました。滞在中には、ミュージシャン、プロデューサー、エンジニア、営業担当、レコード収集家、ジャーナリスト、ラジオパーソナリティ、写真家などと出会いながら、将来的に構想していた「ジンバブウェ音楽シリーズ」の土台を築いていきました。その構想は、Buda Musiqueの『エチオピーク』シリーズのジンバブウェ版のようなものでした。──けれども、人生は思い通りにはいかないのです。
 2001年から2004年にかけて、ジンバブウェは政治的な混乱の時期にありました。それでも私は、一度たりとも危険を感じたことはありませんでした。多くの人が困難に直面する中でも、常にどこかに希望があり、その希望こそが私の夢を支えてくれていたのです。しかしその希望は、2005年のムランバツヴィナ作戦(Murambatsvina=「ゴミを一掃せよ」)によって打ち砕かれました。現地ではこの作戦を「ジンバブウェの津波」と呼びました。ハラレおよび全国の都市周辺のスラム街で、数千軒の住居と店舗が完全に破壊されたのです。この惨劇は、すでに食料の確保すら難しかった数百万人にとって壊滅的な打撃となりました。
 このような状況下で、音楽のことを考えるのは到底不可能でした。私は『The Green Arrows』コンピレーションのリリースパーティーをゼクシー・マナツァの家で開き、20年ぶりの復活コンサート(2005年5月1日)を企画・実現したあと、こう決めました。「いったんジンバブウェを離れよう。状況が落ち着いたら、必ずまた戻ってくる」
 

■ルンバ・ロックとンバクァンガ・ソウル

 10年以上の月日が流れ、私はある珍しい動機から動き出していました────それはお金のためでした。資金を得るため、長年ため込んできた重複所蔵のレコードを手放すという苦行に取り組むことにしたのです。この作業の過程で、私は改めてジンバブウェ音楽への深い愛情を再認識しました。箱をひとつずつ開けては、すべてのレコードを聴き、南部アフリカで過ごした日々の記憶が鮮やかによみがえってきたのです。そこから、コンピレーションとして成立しそうな楽曲をすべてデジタル化し、繰り返し聴きながら、「どの曲が心に残り、どの曲が消えていくか」を見極めることにしました。この自然淘汰的な選曲プロセスには、およそ1年かかりましたが、そこからこのプロジェクトが生まれました。約20曲からなる仮の収録リストを手に、私はふたたび南へと旅立ちました。
 2022年11月、ハラレに到着してみると、音楽業界は完全に死んでいました。ライヴ・シーンもまた然り。ジンバブウェ・ドルの価値はほとんどゼロ同然で、ジンバブウェ・ミュージック・コーポレーション(ZMC)は、全録音資産ごと、何の知識も持たない政治家の手に渡ってしまっていたのです。テレスケイン・ホテルはすっかり荒れ果て、トーマス・マプフーモはアメリカに亡命中。オリヴァー・ムトゥクジも、ゼクシー・マナツァもすでに亡くなっており、やがて私は本作に収録されているほとんどのアーティストたちが、すでにこの世を去っていることを知ることになります。
 それでも奇跡的に、私がいつもハラレ滞在時の拠点としていたスモール・ワールド・ロッジ(Small World Lodge)は今も営業を続けており、私はそこでウィルソン・ジュバネ(Wilson Jubane)────通称ウィーズ(Weedz)と再会しました。彼はハレルヤ・チキン・ラン・バンドやダブル・シャッフルの元ギタリストで、ある涼しい夏の朝、イングリッシュ・ティーを飲みながら、彼の曲「Taj Mahal」について語ってくれました。
「なぜジンバブウェ音楽の黎明期があれほど西洋音楽の影響を受けていたのか?」と私が問うと、ウィーズの答えは意外でありながら、考えてみれば当然のものでした。
「あの頃、まだ国名がローデシアだった時代、ラジオをつければRBC(ローデシアン放送公社)が流れてきて、かかっているのはほとんどロック・ミュージックだったんです。ビートルズやローリング・ストーンズがチャートを独占していて、ぼくらはそれを聴いて育った。だから、地元のバンドはみんな“カヴァー(著作権)音楽”を演奏していた。それに、白人が運営する高級クラブやホテルと契約するには、それが唯一の道だったんですよ。」
また、著書『Roots Rocking in Zimbabwe』で知られるフレッド・ジンディ(Fred Zindi)────このコンピレーションのタイトルも、彼の著書から拝借しています────は、少し皮肉を込めつつ、こう説明してくれました。
「意外に思うかもしれませんが、RBCアフリカ・サービスの音楽番組を担当していたDJたち────パトリック・バジラ、ドミニク・マンディジャ、エフライム・チャンバ、ウェブスター・シャム、ウェリントン・ムボファナ、イシュマエル・カドゥングレ、ヒルトン・マンボ────は、みんなアフリカ人でした。それでも彼らはピンク・フロイド、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックスの音楽に夢中だったんです。だから、彼らのレコード棚にアフリカ音楽が一枚もなかったとしても、誰も責められなかったでしょう。これらのロック・グループの影響力はローデシア全土に広がっていて、ウッドストック・フェスティヴァルは、国内各都市で開催されたロックバンド・コンテスト創設にも大きな影響を与えましたよ。」
 一方その頃、過密化していたコンゴ音楽界からは、多くの優秀な音楽家たちが新天地を求めて国外へと移動していました。当時、ルンバ・コンゴレーズはアフリカ全土で最も人気のある音楽であり、腕の立つプレイヤーであれば職に困ることはありませんでした。例えば、OKサクセスやリンポポ・ジャズといったバンドは、最初は数回のギグのためにソールズベリー(現ハラレ)を訪れただけでしたが、気に入ってそのまま移住し、地元シーンでも広く知られる存在となりました。コンゴ音楽の影響力は絶大で、多くのローデシアのバンドが、レパートリとしてロックとルンバの両方を取り入れていたのです。実際、ハラレ・マンボスやグレート・サウンズのような初期グループは、ショナ語の歌詞を使ったルンバ・コンゴレーズの録音によって注目されるようになりました。
 やがてロックとルンバの時代は、ンバクァンガ(mbaqanga)────通称“タウンシップ・ジャイヴ”の波に押されて終焉を迎えることになります。ンバクァンガとは、ヨハネスブルグ(地元では「eGoli」とも呼ばれます)にやってきたアフリカ人労働者たちが創り出した、多様な音楽ジャンルの融合体を指す言葉です。マラウイ、モザンビーク、北・南ローデシア、南アフリカ────それぞれのリズムが、ジャズと融合することで、かつてないほどの豊かな音楽的多様性が生まれたのです。
 また、ソウル・ミュージックもローデシアで大きな影響力を持っていました。その背景には、1960年代のアメリカにおける公民権運動との共鳴がありました。植民地支配下で生きる黒人アフリカ人たちは、その闘争と強くリンクしたのです。その結果、ソウル・バンドが急増しました。とりわけヨハネスブルグでは、ミュージシャンたちが自らのアフリカ的な感性をソウルに加え、やがてそれは「南アフリカン・ソウル」として独自のスタイルを形成。GalloやTealといった南アフリカのレコード会社の流通網を通じて、ローデシアにもたらされていきました。
 

■ポップ・エクストラヴァガンザ '70───若きローデシアの音楽フェスティヴァルとその波紋

 南アフリカのンバクァンガやソウル音楽の人気は絶大で、マホテラ・クイーンズやイジントンビ・ゼシ・マンジェ・マンジェといった伝説的グループは、ヨハネスブルグとブラワヨの間を頻繁に行き来し、ローデシアのフェスティバルにも数多く参加していました。彼女たちの成功に刺激を受け、グリーン・アロウズをはじめとする地元のバンドたちも同様のスタイルを取り入れるようになり、この地域ではそれが当初“ラビ(rabi)”、やがて“シマンジェ・マンジェ(simanje-manje)”として知られるようになったのです。
 南アフリカ政権のアパルトヘイト政策により、異なる肌の色を持つミュージシャン同士が共演することはできませんでした。しかし国境を越えたローデシアでは、いわば“ライト版アパルトヘイト”が敷かれていたため、白人、茶色の肌の人々、黒人、そしてその中間の人々が交じり合うことは、まだ「容認されていた」のです。1960年代には、南アフリカのプロモーターたちは、自国で蔓延する激しい人種差別を避けるために、ローデシアをアフリカ音楽フェスティヴァルの開催地として選ぶことができました。
 ローデシア音楽に特化した最初のフェスティヴァルのひとつは、若きプロモーター、スタン・グンデ(Stan Gunde)によって組織されました。1970年12月、ソールズベリー(現ハラレ)のグワンズラ・スタジアムで開催されたそのイヴェントは、「Pop Extravaganza ’70」と命名されていました。このスタジアムでは以前にも南アフリカのバンドによる野外コンサートが行われていましたが、地元アーティストに焦点を当てたフェスティヴァルはこれが初めてでした。
出演したのは、ザ・ムタンガ・バンド、ラデダ・ルバブバ・バンド、ザ・フォー・エイセス、ジョーダン・チャタイカといった面々。観客は5,000人以上に上り、大成功を収めました。
 その流れは1972年にも続き、今では伝説となったナヤマンヒンディ音楽祭(Nyamanhindi Music Festival)が開催されました。このイヴェントは、ラジオ・パーソナリティのジャック・サッザとウェブスター・シャムによって主催され、ムタレの郊外約30キロにあるバジル・ブリッジ付近の人里離れた場所で実施されました。全国各地から、あらゆる人種の若者たちが集い、Eye of Liberty、Pepsi Combo、Soul and Blues Union、The Four Aces、The Four Sounds、Electric Mud、The 2D Sounds、The Whitstonesなど、ロックを看板に掲げた多数のバンドが登場しました。
 地元のバンドたちは英米のヒット曲を競い合うように演奏し合い、音楽は3日間にわたって鳴り響きました。やがて、警察が観衆を解散させるために介入することになります。
 フェスティヴァルでは、音楽だけでなく、マリファナの使用者や売人も多数集まったとされ、『Umtali Post』紙はこれを「嫌悪すべき行為」と報道しました。記事によれば、このフェスティヴァルはガンジャの使用を助長したばかりか、黒人と白人が一緒に楽しそうに交流していたという報告が、当時のローデシア政界に衝撃を与えたといいます。保守的な政治家たちは、こうしたイヴェントが続けば「ローデシアの白人文明は終わりを迎える」と憂慮していました。議会は迅速に反応し、「危険薬物の使用を助長した」として複数のミュージシャンを逮捕。その結果、以後すべての音楽フェスティヴァルは全面的に禁止されることになったのです。
 しかし、この禁止措置を回避するために、主催者たちはフェスティヴァルの“パッケージ”を変える工夫を始めました。例えば、ミス・ハラレ・コンテストやチャリティ・イヴェントと組み合わせるなどの方法です。のちにジャック・サッザは「ロック・バンド・コンテスト」という名称で新たなイヴェントを試みました。警察が観客を完全に管理できる屋内会場であれば許可が下りるという条件のもと、再びグワンズラ・スタジアムでイヴェントが開催されました。このコンテストで登場したのが、Dr. Footswitchというバンドのギタリスト、マヌ・カンバニ(Manu Kambani)です。彼はミュージシャン一家の出身で、登場するや否や、ジミ・ヘンドリックスばりのパフォーマンスで観衆を魅了しました。ギターを歯で弾き、背中にまわし、さらにはステージで“燃やす”というアクションまで披露(ただし燃やしたのは偽物のギターでした)。
 時のローデシアでは、黒人が白人メディアに取り上げられることは滅多になく、あるとすれば「死んだテロリスト」として報道されるときぐらいでした。けれどもマヌの演奏は、ついに『Rhodesia Herald』紙の一面を飾り、「ジミ・ヘンドリックスは死んだが、マヌは生きている」と書かれるまでになりました。
その編集判断には保守派から猛烈な批判が寄せられ、「新聞の品位が落ちた」と叩かれました。とはいえ、この記事は結果としてマヌ・カンバニをハラレ(ソールズベリー)を象徴する存在へと押し上げ、若者たちの間でバンド結成ブームを引き起こすきっかけとなったのです。
 もう一人、ジンバブウェ音楽史における重要人物として知られているのが、ケネス・チョググザ(Kenneth Chogugudza)です。
彼は「アンクル・ボンド(Uncle Bond)」という愛称でも親しまれ、その名はもちろんジェームズ・ボンドに由来します。彼はハラレの中心地、ザタ・ストリートにあった楽器レンタル業の店主であり、ローカル・シーンにとって不可欠な存在となっていきました。The Maratu Brothersのベーシスト、エドガー・ドロフィス(Edgar Droffice)はこう語ります。
「ハラレのタウンシップにある多くのバンドは、最初はみんなボンドさんの店の近くで結成されていたんです。その場所から離れれば離れるほど、バンドの数は減っていきました。ハイフィールドから来たミュージシャンたち──例えばワゴン・ウィールズの連中なんかも、みんなハラレまで出てきて彼のところで楽器を借りていたんですよ」
アンクル・ボンドは、ハラレの音楽シーンの成長を支える非常に重要な人物となり、数多くのバンドの立ち上げに直接的・間接的に関与していました。やがて、ロニー・トム(Ronnie Tom)という別の人物が、ハラレの3番通り(3rd Street)に新たなレンタル・ショップを開き、街の反対側にも新しいバンドが次々と登場しはじめました。ロニー・トムには若者たちから“マイザー(Miser=守銭奴)”というあだ名が付けられましたが、それは「彼が若者たちから高い料金を取っていたからだ」と冗談交じりに語られていました。
 

■ムシャンディラ・パンウェ────ともに働く、ひとつとなる

 1970年代初頭、ライヴ音楽への需要が高まったことで、新たな会場が次々と誕生し、すでに存在していた会場も、地元バンドのプロモートに注力するようになっていきました。なかでも伝説的な存在となったのが、1972年にジョージ・タウェングワ(George Tawengwa)によって建設され、息子のソロモンが経営を担ったムシャンディラ・パンウェ・ホテル(Mushandira Pamwe)です。ホテルの名「ムシャンディラ・パンウェ」は、ショナ語で「ともに働くこと(working together as one)」を意味し、ソールズベリー西部のハイフィールド地区において初めて黒人が所有したホテルでした。植民地支配の外にあったこのホテルは、解放闘争の戦略家や自由を求める戦士たちの集会所であると同時に、国を代表する音楽家たちの創造的な拠点にもなっていきました。
 ハイフィールド地区には他にも、ソールズベリーのナイトライフを形づくる上で重要な役割を果たした会場がありました。例えば1967年にクレヴァー・ムタンガ(Clever Mutanga)によって設立されたムタンガ・ナイトクラブ(Mutanga Night Club)は、活気あふれる雰囲気で知られ、各地から客が集まりました。ムタンガの死後は経営が変わり、マチピサ・ナイトクラブ(Machipisa Night Club)と名前を変えています。
 また、1977年にオープンしたクラブ・サラトガ(Saratoga)も、街で注目のホットスポットのひとつでした。民間のクラブに加え、マイ・ムソズィ・ホール(Mai Musodzi Hall)やストダート・ホール(Stodart Hall)といった市議会管轄のコミュニティ・センターも、音楽グループの演奏だけでなく、教会の集会、結婚式、政治集会といったさまざまな用途に対応し、タウンシップの必須施設として機能していました。
 一方、ソールズベリー中心部にある高級ホテル群────エリザベス・ホテル、モノモタパ・ホテル、クイーンズ・ホテルなど────は、主に白人客層を対象としており、出演できるのはごく一部の人気バンドに限られていました。とはいえ、人種隔離政策が敷かれていた当時のローデシアにおいても、例外的に多民族混成のヴェニューが存在していました。例えば、ボナンザ・クラブ、ビート・ボックス、シンバ・ナイトスポット(のちにオーナーの名をとってジョブズ・ナイトスポットへ改名)、フェデラル・ホテル(別名:クザナイ・ホテル)などがその代表です。これらの会場は、あらゆる層の観客から人気を集めていました。
 

■4トラック録音セッション

 1974年は、ローデシア音楽シーンにとって大きな転機となった年でした。それまでにも、Dr Footswitch、The Great Sounds、M.D. Rhythm Success、Afrique 73、The Hitch-Hikers、The Impossibles、St Pauls、M.D. Hotshots、OK Successといったローデシアのバンドが、ライヴ・パフォーマンスの勢いを武器に、南アのGalloレコード会社と単発契約を結んだことはありました。しかしGalloはその勢いを十分に活用しきれなかったのです。
 そのような中、南アフリカのTealレコード会社は1974年、ローデシア支社を強化する方針を打ち出し、1950年代後半から活躍していたドラマーであり、現場主義の音楽人クリスピン・マテマ(Crispen Matema)をプログラム責任者として起用しました。マテマは自らのプジョー504に乗り込み、ローデシア中を奔走して無名の才能を探し出し、選び抜かれたグループにはソールズベリーまで来てもらって音楽コンテストに参加させるという大胆な方法を取りました。
 その最初のコンテストは1974年初頭、スカイライン・モーテルで開催され、以下のバンドが出演しました:ハラレ・マンボス/サフィロ・マジカタイレ/Eye Q/OKサクセス/ハレルヤ・チキン・ラン・バンド。コンテストの結果、ハレルヤ・チキン・ラン・バンドが優勝し、ジョーダン・チャタイカが2位、エレクトリック・マッドが3位に輝きました。
 マテマは、ソールズベリー中心部にある高層ビルの11階にあるジェイムソン・ハウス・スタジオを予約し、音響エンジニア/プロデューサー/DJとしても知られるヒルトン・マンボ(Hilton Mambo)の協力を得て、次々と地元バンドの録音を開始しました。
 最初の1年で録音されたバンドには以下が含まれます:Jeff’s Harmony Kings/The Limpopo Jazz Band/Wells Fargo/Baked Beans/Blacks Unlimited/New Tutenkhamen/Echoes Ltd/Gypsy Caravan/Tafara Sounds。これらの録音をリリースするため、Tealは新たにAfro Soul、Afro Pop、Shunguといった複数のインプリント(サブレーベル)を立ち上げ、それぞれに看板バンドを用意しました。
 一方、ライバル社のGalloもこの動きを受けて反応を見せます。彼らは自社のトップ・プロデューサーにして伝説的サックス奏者でもあるウェスト・ンコシをローデシアに派遣し、新興音楽シーンをスカウトさせました。ある偶然の推薦により、ンコシはソールズベリーとマロンデラの間にあるジャマイカ・イン(Jamaica Inn)ホテルで演奏していたグリーン・アロウズと出会います。リーダーは気まぐれなベーシスト/シンガーのゼクシー・マナツァ。ショー終了後に声をかけたものの、バンドは「録音には興味がない」とそっけない返事。しかし、ンコシはあきらめず、何度も会場に足を運び、ついに録音契約にこぎつけます。
 そして1974年7月、グリーン・アロウズはソールズベリーのCRT(商業放送テレビ局)スタジオで4トラック・テープ・レコーダーを用いて4曲を録音し、このセッションがジンバブウェ音楽史を変えることになったのです。同年クリスマスまでに、シングル「Chipo Chiroorwa」は南アのインプリントInkonkoniからリリースされ、25,000枚以上を売り上げてローデシア音楽史上初のゴールドディスクを獲得します。この成功を受けてGalloは、Farayi FarayiとKudzanayiというローデシア音楽専門の新レーベルを立ち上げました。その勢いは1975年まで続き、国中の人々がNew Tutenkhamenの「Joburg Bound」で踊り、Baked Beansの「Introduction」がチャート1位を記録。さらにグリーン・アロウズは、「Mwana Waenda」「Amai Mandida」といったサイケで大胆な“ジム・ホーダウン”スタイルの楽曲で再び大旋風を巻き起こしました。
 TealとGalloの競争のなかでは、少なくともトーマス・マプフーモ(Thomas Mapfumo)が登場するまでは、ンコシのプロデュースが商業的にリードしていたと言えるでしょう。マプフーモは、かつてThe SpringfieldsやHallelujah Chicken Run Bandで修行を積み、ソロ転向後はBlacks UnlimitedやThe Acid Bandとの録音で、伝統音楽を現代化した内容で2年間に7枚ものゴールドディスクを獲得します。その後1978年、なぜかは定かでありませんが、クリスピン・マテマはTealを離れ、ウェスト・ンコシ率いるGalloに移籍。Tealでの後任には、同社で最も経験豊富な営業マンのひとりだったアビネル・クワングワ・マプフーモ(Abinel Kwangwa Mapfumo)が就任しました。A.K.マプフーモの名で知られた彼は、スタジオ前に毎日何組ものバンドが列をなすほどの人気を誇り、練習不足のバンドは容赦なく却下、気に入らない曲にはその場で「代替曲を作れ」と命じる厳格さで知られていました。
 

■ホコヨ/見張れ!

 A.K.マプフーモの登場は、ジンバブウェ音楽に新たな時代をもたらしました。彼は活動の多くを伝統音楽の録音に集中させ、トーマス・マプフーモとティネイ・チクポが先導したそのサウンドは、解放闘争の旗印のもとに世代を超えて人々を団結させ、国内の黒人アーティストたちの圧倒的多数に支持されていきました。自由の戦士を鼓舞し、抵抗を呼びかける歌詞は、検閲を逃れるために巧妙にカモフラージュされなければなりませんでした。このとき極めて効果的だったのが、一見無害に見えながら裏に意味を隠すアフリカのことわざでした。
 実際、1970年代のジンバブウェ音楽がきわめて魅力的だった理由のひとつは、アーティストたちが発揮した言語と伝統表現の卓越した技術にあります。音楽を通して発信される政治的メッセージの巧みさは、ショナ語やンデベレ語を学ぼうとしなかった白人ローデシア人たちの目をすり抜けることができたのです。
 しかし、どれほど巧妙に偽装されていたとしても、ゼクシー・マナツァやトーマス・マプフーモの圧倒的な人気は、ついにPATU(対テロ警察部隊)の注意を引きました。「なぜこれほど若者が集まるのか?」という疑念のもと、マプフーモは逮捕され、3か月間収監されます。釈放の条件は、アベル・ムゾレワ(白人政権と取り引きした司教/政治家)の集会で演奏することでした。このムゾレワは、ゲリラとの交渉を避けたい白人たちによって権力の座に据えられようとしていましたが、“ブッシュの少年たち”────ゲリラ兵たちはそれを拒否し、戦いは続いていきました。
 マプフーモとアシッド・バンドの仲間たちはムゾレワのショウへの出演を受け入れたものの、1978年にはアルバム『Hokoyo!(ホコヨ/見張れ!)』で鮮烈なカムバックを果たします。これはチムレンガの金字塔にして、クリスピン・マテマのキャリアにおける一大マイルストーンとなりました。マプフーモの音楽は、白人少数政権にとって重大な脅威と見なされ、彼のファーストLPは国営ラジオで放送禁止となります。しかし、音楽の力は止められません。モザンビークやザンビアにあるディスコやラジオ局がその楽曲を流し続け、メッセージは広がり続けたのです。一方、ゼクシー・マナツァは1975年に逮捕され、1977年には再び拘束されます。その理由は、「Madzangara Dzimu」という圧倒的な革命歌を演奏したことでした。このとき、兄弟であるスタンリー・マナツァのギター演奏は、まるで太陽のように輝いていたと記されています。
 その2年後、1979年8月。選挙キャンペーンの一環として、アベル・ムゾレワはハラレで政治集会を開催しました。しかし不運なことに、同じ日、ゼクシー・マナツァが恋人ステラとルファロ・スタジアムで結婚式を挙げていたのです。スタジアムには6万人もの人々が詰めかけ、ジンバブウェを代表するミュージシャンたちが一堂に会してこの国民的アイコンを祝福しました。翌日の『Sunday Mail』紙の一面には、こう大きく書かれていました。
「ゼクシーの結婚式がムゾレワの集会を台無しに」
 その間、Galloレコードは次なるスターを探していました。ウェスト・ンコシはアパルトヘイト下の南アからの逃避も兼ねてローデシアに長期滞在し、ゼクシー・マナツァと親交を深めていました。ゼクシーはすでに多くの若手アーティストのメンターとなっており、そのなかである若い歌手がンコシの耳にとまります。伝説によれば、1976年頃、若き日のオリヴァー・ムトゥクジがゼクシーに近づき、「自分たちのバンド“ワゴン・ウィールズ”をグリーン・アロウズの前座にしてもらえませんか? 楽器はないのですが……」と頼んだといいます。ゼクシーはそれを快諾し、自分たちの機材を若者たちに貸し出したのです。この出会いが奏功し、やがてワゴン・ウィールズはンコシのレーベルに加わります。そして国に吹き荒れる変革の風に後押しされる形で、彼らは“ブラック・スピリッツ(The Black Spirits)”と改名し、次々とヒット曲を生み出してGalloジンバブウェを80年代へと導いていきました。
 1970年11月、音楽フェスティヴァルを取材した雑誌『Parade』の記者は、こう書いています────「Pop Extravaganza ’70は、ある点において失望だった。それは、わが国のポップ・バンドにオリジナリティが欠けていたということだ。ジョーダン・チャタイカだけが自作曲を披露し、他のバンドは皆、ストーンズ、トム・ジョーンズ、ビートルズ、シュープリームスといった海外アーティストのカヴァーばかり。我々には、自国民の精神を映すような“自作曲”が必要だ。バンドリーダーたちよ、自分自身の音楽を始めてくれ! 次にフェスが開かれるときには、観客数は倍になるかもしれないぞ」
 この呼びかけは、確かに届きました。それから数年後────クリスピン・マテマ、ウェスト・ンコシ、A.K.マプフーモの手腕のもと、解放闘争の熱に動かされたジンバブウェのバンドたちは、完全オリジナルの楽曲だけを録音し、国の音楽風景を塗り替えていったのです。ここに収められた25曲こそ、その証しです。
 
文:サミー・ベン・レジェブ(2024年夏)