9月30日(木)

 シンガポールからのナイト・フライトは満席。おかげでまったく眠れず、ヘトヘトの状態で成田に着いた。それから電車に乗って、自宅に着いたのは11時頃。会社に行って、さらに銀行支払いなどを済ませたら、もう3時。経理の資料を税理士さんのところに届けて、夕方6時に帰宅したら、もう体力の限界だった。昼食も夕食も取らずに、ただひたすら爆睡。

 今回のインドネシア旅行で、日記に書き忘れていたことがいくつか。

 9月22日、バンドゥンのジュガラ・スタジオでレコーディング中、偶然ヘティ・クース・エンダンとワルジーナに会えた。翌23日ググム・グンビーラの企画によるスンダ伝統音楽の夕べという公演があり、そこにヘティとワルジーナが参加(ワルジーナはスンダ音楽の伴奏でジャワの曲を歌ったらしい)。その公演のための打ち合わせでググム・グンビーラの家に集まっていたようだ。ともにスタジオで仕事をしているぼくを見てビックリ。もちろんぼくも大ビックリ大会。
 ヘティもワルジーナも、ともに元気そうで、久しぶりの再会を喜び合ったが、そこで二人から聞いた話の中で悲しい知らせがひとつ。かつてワルジーナのクロンチョン・アルバムをプロデュースしたときに一緒に仕事をしてくれた現代クロンチョン/ジャワ音楽の最高の音楽家マントースが1年ほど前に脳溢血で倒れ、いまでは口もきけない状態なのだそうだ。これはぼくにとっては非常にショッキングなニュースだ。単に友人として悲しいだけでなく、インドネシア音楽全体にとってすごく大きな損失に感じられた。マントースが倒れてしまったいま、もうワルジーナのアルバムのような本格的なクロンチョン・レコーディングは二度とできない…。

 9月29日、滞在中のホテルからスタジオに向かおうとしたときに、ショート・カットの女性が声をかけてきた。これがなんと、以前チャンプールDKIというグループの女性歌手として来日したダンドゥット歌手ヘティ・スンジャヤ。日本で会っただけでなく、インドネシアでの録音も取材したことがあったので、ぼくのことを覚えていたようだ。
 彼女から聞いた話の中でも悲しい知らせがいくつか。かつて久保田麻琴さんのインドネシア・プロジェクトのコ・プロデュースを務めていたリリック・アリボウォが昨年スマランで亡くなったのだとか。さらにチャンプールDKIのベーシストだったボヨも少し前に亡くなり、名グンダン奏者マディも神経をおかしくして活動停止。スリンのスキやキーボードのサティリは元気に活動しているようだが、エルフィ・スカエシのプルティウィ時代など、80〜90年代のダンドゥットのほとんどでグンダンを演奏していたマディがもうシーンにいないなんて、ちょっと信じられない気分だ。

 せっかくバンドゥンに行ったのだからデティ・クルニアに会おうと思ったのだが、結局スタジオから抜け出すことが出来ず、9月22日に電話で少し声を聞けただけに終わってしまった。ただ、カセット・ショップで彼女の新作を発見。相変わらずすばらしい歌声を楽しませてくれているので、嬉しくなった。なんでもデティは1990年頃からずっと休業状態だったのだが、最近になって再び歌いはじめたのだそうだ。声も少しも衰えていない。もし機会があったら、彼女とは一度一緒に仕事をしてみたくなった。

 

9月29日(水)

 当初の予定では昨日でレコーディングをすべて終わらせて、今日の朝の便で日本に帰ろうと思っていたのだが、それもかなわず、夜行便に変更。朝から夕方までスタジオに入ることになった。ベンもぼくもヘトヘトの状態だが、仕事だから仕方がない。今日もヴォーカル中心のセッション。夜にはスリン(笛)もオーヴァ・ダブして、なんとか格好がつくかたちになった。
 夕方にはぼくだけスタジオを離れて、急いでスカルノ・ハタ国際空港へ。ジャカルタからシンガポールに飛び、そこからナイト・フライトで成田に向かった。というわけで、残りの仕事はベン・マンデルソンにおまかせ。ベンはあと2日ほどジャカルタに滞在して、少し体を休めてから帰国してもらうことにした。

 

9月28日(火)

 昨晩はタクシーがなかなかつかまらなくて、ホテルに戻ったのが3時。寝たのは4時。なのに今日は8時に起床。朝食をとってすぐにスタジオに向かった。ジャカルタの交通渋滞はいつもイライラさせられるが、今日は特にヒドい。夜なら10分で行けるところに1時間もかかった。スタジオに着いたら、さっそくヴォーカル録りのセッティング。今日からトティさんというベテランの女性歌手が来ることになっていたので、今日は彼女の歌が中心のセッションだ。
 実は昨日、彼らは別の女性歌手と連れてきていたのだが、この人が風邪気味なのか、声が絶不調。これじゃダメだと、急遽トティさんに来てもらうことになったのだが、この選択は正解だったようだ。トティさんは往年のガンバン・クロモンの歌手を思い出させる、すばらしい歌声の持ち主。古典的な作品を幅広く歌える、いまでも珍しい存在で、素朴ながらもすばらしい高音を楽しませてくれた。この人のおかげで今日のレコーディングは順調に進み、約半数のヴォーカルを録り終えた。
 夜になってからは、タンジドールのブラス・セクションを数曲録音。おじいさんたちの演奏は、ピッチはバラバラだし、まったくヨレヨレなのだが、なぜか不思議な味わいがある。今日は彼らの仲間たちが演奏するパーカッションも加えての、まったくの一発録り。ダブをしないレコーディングというのも久しぶりだ。老人ばかりがスタジオに集まった演奏は、10数年前にブラジルで体験したヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラとのレコーディングを思い出させてくれた。

 今日も結局スタジオ作業は深夜1時まで。ホテルに戻って少しだけ睡眠。午前5時頃には起きだして、解説原稿を1本書き上げた。

 

9月27日(月)

 ジャカルタ・プロジェクトの2日め。今日はCプロ・スタジオに移動してのレコーディングだ。セッティングなどは昨日チェックしたので、今日はさらに早くサウンド・チェックも終わり、レコーディングがはじまった。
 今日はベーシック・トラックを録音しながらブラス・バンドと歌手たちの力量をチェックすることにした。タンジドールのブラス・バンドは老人ばかりだから、無理はさせられない。演奏できる曲、好きな曲をやってもらうしかない。ガンバン・クロモン楽団のメンバーに関しては、ジャイポンのクンダン奏者であるエガくんが入ったことで、いつものクンダンよりずっとパワフルなサウンドに最初は驚いていたようだったが、演奏しているうちにだんだん慣れてきたようだ。彼のクンダンが入ったことで、古い音楽であるガンバン・クロモンを若返らせてくれるんじゃないか、というのがぼくらのアイディアだったが、その役割は十分に果たしてくれているようだ。
 今日はベーシックを4曲と、同時進行でブラス・セクションやパーカッションのオーヴァー・ダブを数曲。今日も朝から夜の2時まで、びっしりスタジオ仕事ということになった。ジャカルタがバンドゥンより暑いせいもあって、ぼくもベンも本当に疲れきってしまった。

 

9月26日(日)

 ジャカルタ・セッションの初日。今日は当社の取り引き先であるグマ・ナダ・プルティウィ社のスタジオを使わせてもらうことになった。プルティウィ社のヘンダルミン・スシーロ社長との付き合いはかれこれ12年になるが、これまでCDの取り引きだけでなく、インドネシアでのレコーディングの時にはいつも彼にお世話になってきた。今回のプロジェクトをコーディネイトしてくれたのは、彼の息子さんであるジャカウィナタくんだ。ぼくがヘンダルミンさんと知り合った頃は学生だった彼も、いまではプルティウィ社の後継者として働いている。今回はバンドゥンにも同行してくれたし、ジャカルタでも音楽家たちを探すのに一生懸命働いてくれた。

 レコーディングの初日は、どうしてもセッティングに時間がかかる。でも、ジュガラ・スタジオのチェピーくんが一緒にジャカルタに来てくれたので、ベーシック・トラックで一番重要なクンダンのサウンド・チェックに時間を取らずにすんだ。
 ジャカルタ・セッションはガンバン・クロモンとタンジドールという音楽。ともにもともとは中国系の人たちの音楽で、今回スタジオに来てくれたミュージシャンたちも、年配の人たちはほとんど中国系だ(ただしそれがわかったのは名前を見たからで、顔を見ただけではわからない)。ガンバン・クロモンというのは、二つの楽器の名前がくっついてそのままジャンル名になったもので、ガンバンは木琴、クロモンはガムランのボナンみたいな楽器だ。それに中国風のヴァイオリンとスリン(笛)、クンダン(太鼓)、ゴングなどが加わって演奏される。古い時代のジャカルタ(バタヴィア)の庶民性を凝縮したような音楽だ。一方のタンジドールというのは、ブラス・バンドで演奏される音楽で、インドネシアのチンドン屋さんみたいな音楽だと思ってもらえばいいだろう。この両者は、兄弟みたいなもので、一緒に演奏することも多い。今回はこの両者の音楽家たちに集まってもらって、演奏してもらおうということになった。いわば、ジャカルタのアンダーグラウンド・ミュージックのアルバムだ。
 今日はベーシック・トラックを5曲録音。タルリンの時と同じで、まずはバンドのどの人が実質上のリーダーなのかをさぐることからはじまった。そう思って演奏を聞いてすぐにわかったのが、ネディさんという人がどの楽器を演奏しても一番上手いことだ。クロモン奏者はその次に上手い。さっそく彼らと話していたら、70年代中ごろから当時の名門バンド、ナガ・ムスティカに所属していたと聞いて納得させられた。インドネシア音楽に詳しい人なら知っているかもしれないが、ナガ・ムスティカはガンバン・クロモンをモダン化させて70年代後半に大きな人気を得た男性歌手ベニャミン・Sの伴奏を務めたグループ。当時のリーダーは中国系だったはずだが、メンバーの多くは中国系ではなく、その点でも新しかった。ガンバン・クロモンがポピュラー音楽として一番輝いていた時代に活躍していた音楽家がふたりも参加してくれているのだから、ラッキーだ。
 今日はさらにタンジドールのブラス・バンドにも演奏してもらったが、こちらは超ベテランのホーン奏者が3人。ブエナ・ビスタ・ジャカルタという感じで、チューニングはまったくバラバラ、音はヨレヨレだが、妙な味がある。ベン・マンデルソンはかなり気に入ったようで、しきりに<とてもチャーミングな演奏だ>と言っていた。
 今日はいわば顔合わせ。その目的をいちおう果たすことが出来たところで、ちょうど予定時間が終わった。帰途に着いたのは12時過ぎ。いつもより早いのに疲れを感じるのは、初日で緊張していたからだろう。

 

9月25日(土)

 昨晩は遅くまで仕事だったのに、今朝は7時に起床。9時過ぎの汽車に乗ってジャカルタに行かないといけない。ベンもぼくも眠たい目をこすりながら駅にたどり着いた。もちろん汽車の中では爆睡。気がついたら、汽車はもうジャカルタに着いていた。
 今日はレコーディングはお休み。でも、明日のレコーディングの準備をしないといけない。明日からはまた別のグループとのレコーディング。なのに、ぼくもベンも、彼らのことをほとんど知らない。明日から録音するのはガンバン・クロモンとタンジドールという音楽だが、演奏するメンバーのことは知らなくても、それらの音楽についてこれまでぼくが知ってきたことを整理することにした。

 これまでのぼくのプロジェクトは、例えばワルジーナのアルバムを録音するときには、事前に彼女に何度も会って、曲目やアレンジなどを周到に準備してから録音に取り掛かった。でも、今回のジャカルタのレコーディングに関しては、あえてそれをしないことにした。たまにはまったく知らないグループとの出会いのインパクトをそのまま生かしてみたいと思ったからだ。ベン・マンデルソンは、ファンならご存知のように、これまでたくさんの国でさまざまな音楽のプロデュースをしてきた人だし、ぼくのほうも、彼ほどではないにしても、それなりの経験の蓄積がある。今回のグループを紹介してくれたのはグマ・ナダ・プルティウィ社だが、そうやった与えられた題材でその音楽家たちのよさを生かすことができるか、試してみたくなったのだ。

 夜にはバンドゥンからエンジニアのチェピーとクンダンのエガくんが到着。ジャカルタでのセッションでもぼくらはジャイポンの要素を加えようとしていたので、彼らにはそのまま手伝ってもらうことにした。ガンバン・クロモンの音楽家たちはみんなベテランだが、そこに若いてパワフルなエガくんのクンダンを入れることで、そのサウンドを若返らせてもらおうというアイディアだ。エガくんとはアルバム2枚分の仕事ですっかりコミュニケーションができるようになっている。今回もきっと良いアイディアを提供してくれることだろう。彼らにはまだプロジェクトの趣旨を伝えていないが、それは明日で十分だろう。とにかく旅の疲れを癒してもらうことにした。彼らだけでなく、ぼくもかなり疲れている。

 

9月24日(金)

 アジブ老が一昨日のことを反省していると思ったのは、完璧な勘違いだった。朝スタジオにやってきたとたんにぼくのところにやってきて、夜にチルボンで公演の仕事が入ったから、今日は午後2時に帰るという。約束では今日は最後までレコーディングに付き合ってくれるはずだったのに…。しかも全然悪びれた様子もなく、当たり前のように言ってくれるから困ってしまう。
 しかし、帰ると言われたって、まだ彼のヴォーカルが入っていないトラックがたくさんある。パーカッションやスリンなどのオーヴァー・ダブだって残っている。でも彼はそんなことはお構いなし。自分の歌だけは終わらせたいから早く準備をしようとせかしてくる。こちらが困った顔をしていると、よし、わかった、特別にギタリストだけは残してやる、後は彼と仕事をしてくれ、という調子だ。しかも情けないことに、ぼくはそこで思わず、ありがとうと言ってしまった…。なんでここでお礼を言わないといけないだと思いながらも…。
 アジブ老の歌を録音したら、もう午後2時。もうギタリストしかいないのだから、仕方がない。彼ができることを夕方まで録音して、そこから先はバンドゥンの若い音楽家たちを呼んで、残りの曲をやってもらった。気がついたら、もう夜の2時。ベンもぼくも本当にヘトヘトだ。明日は早起きしてジャカルタに移動しないといけないのに、はたして起きられるのだろうか…。

 

9月23日(木)

 朝早くにスタジオに行ったら、アジブ老はすでに到着していた。昨日のことなんかもう忘れたようで、涼しい顔をしている。今日は一日ここにいてもらいますからねと言ったら、夕方くらいまでは頑張るよという調子。ぼくが焦っていることなんて、まったく意に介していないようだ。
 でも、さすがにアジブ老がスタジオにいると、バンドのメンバーも少しは気合が入るから侮れない(と言っても、演奏できるのは相変わらずギターのカマルさんだけだが)。アジブ老も、昨日のことを少しは反省していたのだろう、調子が出てきたら、今日は夜遅くまで頑張ると言ってくれた。おかげで、レコーディングはいきなりハイ・ペースで進む。エガくんとカマルさんによるベーシックが4曲と、懸案だったアジブ老のギター弾き語りによる伝統タルリンなど、今日だけで7曲ぶんの録音をすることができた。アジブ老の伝統タルリンは、まさにチルボン・ブルース。この手の音楽が好きな人なら絶対に楽しんでもらえるだろう。ブルース・ファン、あるいは<砂漠のブルース>ファンにもぜひ注目していただきたい。発売はたぶん来年になるが、楽しみにしてきただきたい。

 

9月22日(水)

 スタジオに行ったら、アジブ老は、今日は夜にチルボンで仕事があるから、午後には帰ると言い出した。明日の朝に戻るから、それまでバンドのメンバーと伴奏のレコーディングをしていて欲しいという。もちろん強烈にアタマにきたが、どうもこの人には怒る気になれない。ヌカにクギというか、のれんに腕押しというか…。面倒になって、どうぞご勝手にと言って、レコーディングをはじめることにした。
 昨日わかったのは、ギタリスト以外はほとんど素人だということ。だとしたら、このギタリストに頑張ってもらうしかない。そこでベーシック・トラックはクンダンのエガくんとこのギタリスト(カマルさん)とだけで録音することに決めた。さらにゴングやクチュレック(ハイハットみたいなパーカッション)もエガくんにオーヴァ・ダブ。カマルさんにもセカンド・ギターを演奏してもらって、2人だけで伴奏を作ってゆくことにした。こんな感じで5曲仕上げたところで、もう夜の1時過ぎ。明日は朝早くにアジブ老が戻ってくるというので、今日はもう寝ないといけない。今日も本当に疲れる1日だった。

 

9月21日(火)

 今回のインドネシア・プロジェクトは、2週間弱で3枚分のアルバムのレコーディングをするという超ハードな日程が組まれている。日程を組んだのはもちろんぼくだが、そんなにたくさん録音したいと言ったのはベンのほうだ。興味のあることがいっぱいあって、少しずつという気分にはなれなかったらしい。
 というわけで、今日からはまた別のプロジェクト。チルボンの音楽であるタルリンのバンドを呼んでレコーディングすることになった。スタジオは同じジュガラだ。チルボンからアブドゥル・アジブ楽団の一行が到着したのが昨日。さっそく打ち合わせを済ませ、今日が初日になる。
 アブドゥル・アジブは、日本で知っている人はほとんどいないが、タルリンの世界では大ベテラン。70年代に「ワルン・ポジョック」という曲をヒットさせて以来、現在まで第一線で活躍してきた。いま62歳。タルリンというジャンル名は<ギター(インドネシア語ではギタール)>と<スリン(笛)>を合成させた造語だが、アジブ老はスリンと自身の演奏するギターだけの伴奏で即興歌を歌える最後の世代の人だ。もちろん、いまのタルリンはダンドゥットのスタイルを取り入れ、プログラミングで簡単に作られたものが主体で、インドネシアで発売されているカセットではそんな本格的なタルリンは聞けない。そこで今回はアジブ老に、本人としてもはじめての本格的なタルリン演奏をレコーディングしてもらおうと思ったわけだ。

 と思ってレコーディングをはじめたものの、本人はお昼を過ぎてもスタジオにやってこない。仕方ないからバンドの人たちと伴奏のレコーディングをはじめたのだが、ここでビックリ。というのも、ギタリストを除いてほとんど素人みたいな人ばかりなのだ。
 今回は、本人の弾き語り以外に、ジャイポンガンのアルバムでも活躍してもらったクンダンのエガくんに参加してもらって、タルリン・ジャイポンの曲も作ろうと思ったのだが、エガくんの強力なクンダン演奏にアジブ・バンドの人たちは全然ついてゆけない。打楽器陣はとても演奏に参加してもらえそうもない感じだ。さらにベーシストとスリン奏者のひとりがまったくど素人。女性歌手は、声は良いけど、歌はまだまだで、とてもひとりでは歌ってもらえそうもない。彼女はデュエット・ソングのみの参加に決定した。という感じで、ミュージシャンたちをチェックしていたら、まともに演奏できるのはギタリストと伝統スタイルのスリン奏者だけということになった。午後遅くなってアジブ老がスタジオにやって来たので、どうしてこんなメンバーを連れてきたのかと詰め寄ったのだが、アジブ老は涼しい顔。どうも今回参加したのは、ギタリストを別にして、ナイトクラブで演奏するライヴ用のメンバーだったようだ。それじゃ下手なのも仕方がない。要するに、ぼくは日本人ということでナメられていたということだ。
 そんな訳で初日は夜12時まで頑張っていろいろ試みたのに、まったく散々の出来。このバンドとどのように相対するべきか、今晩真剣に考えないといけない。

 スタジオ作業の後、ベン・マンデルソンと対策を検討。ホテルに戻ったのは今日も午前2時を過ぎてからだった。

 

9月20日(月)

 今日はインドネシアの次期大統領を決める選挙の日。そこで昼間はスタジオ作業を休み、午後遅い時間からミックス作業をすることにした。今回のアルバムは、基本的に日本に戻ってからミックスするつもりなのだが、ジャイポンのクンダン(太鼓)なんて、いままでミックスしたことがない。そこでスペシャリストであるチェピーくんにミックスを教えてもらうためにも、一緒に一度ミックス作業をしてみようと思った。
 最初はただ教わるだけのつもりだったが、どうもチェピーくんは妙に気合が入っている。<ラフ・ミックスだよ>とか言いながらも、表情は真剣だ。きっとぼくがこれからやろうとしているミックスより良いものを作ってやろうと気合を入れているのだろう。以前からインドネシア音楽ファンなら知っているように、ジュガラ・スタジオのアルバムはおとなしいミックスのものが多いが、それらはチェピーくんがやったものではない。彼のミックスはけっこうトンガッている。キューベースを使ってミックスしているのにアナログの音がする。ぼくの好きなタイプの音だ。ひょっとしたら、彼のミックスはそのままアルバムに使えるかもしれない。

 ジャイポンの創始者ググム・グンビーラとサンバスンダのイスメットが今日もスタジオにやってきて、ぼくらを夕食に招待したいと言ってきた。昨日ぼくがジャイポンの成り立ちをあまり細かく訪ねたものだから、もっと話を聞かせたかったのだろう。ググムさんは当時のミュージシャンをわざわざ呼んでくれて、またインタビューになってしまった。しかもググムさんはそんなインタビュー風景をヴィデオに撮っている。きっとどこかのテレビ局に持っていって、日本からわざわざ自分にインタビューに来た人間がいたということをみんなに知らせたいのだろう。ググムさんは、どうもそういうタイプの人のようだ。

 今日もホテルに戻ったのは1時過ぎ。それから録音データの整理をして、ベッドにもぐりこんだのは3時過ぎだった。

 

9月19日(日)

 ベンの調子がやっと戻ってきたようだ。今日も8時には起床。9時半にはスタジオに向かったのだが、あまり寝ていないのにも関わらず、ベンは朝食もしっかり取れるようになったし、目の輝き自体が昨日とは違う。ベンは思った以上に細かいことを気にする人だから、スタジオでは細部まで音をチェックしているせいか、昨日はぼくよりずっと疲れた顔をしていた。でも、時差ぼけが少し解消されたのか、昨晩ははじめてゆっくり眠れたとかで、やっと本来の調子を戻したようだ。

 昨日は大御所のスワンダさんがスタジオにいたせいで、若手たちは緊張した面持ちだったが、今日スタジオにいるのはクンダンのエガくんをはじめとする若手音楽家ばかり。おかげで和やかなレコーディングとなった。ただ、和やかではあっても、けっしてダラけているわけではない。彼らが適度の緊張を保ってやってくれたのは、きっと昨日のスワンダさんとのセッションの余韻が残っていたからだろう。

 どこの国でもそうだが、2日めになると、レコーディングはすごくはかどる。結局今日は、昨日の倍の仕事を、午後11時までに終わらすことができた。しかも夜になった頃から、バンドゥン・ボーイズ(ぼくとベンは彼らのことをそう呼ぶようになった)はまさに絶好調。録音しているうちにやりたいことが次々と出てきたようで、最後の2曲は完全に彼らに任せることにした。そういう場合は、ぼくがスタジオにいないほうが、彼らも好きなことができる。そう判断して、ぼくは持ち場を離れ、ググムさんの家にお邪魔することに。そこでお茶をご馳走になっていたら、サンバスンダのイスメットくんも加わってくれて、1時間ほど音楽談義に花を咲かせることになった。
 こういうリラックスした会話から新しい仕事のアイディアが生まれることが多い。今日もそんな感じだ。ググムやイスメットから次々と新しいアイディアが飛び出し、それならこうするのがいいだろうとか話していたら、アッという間に新しいプロジェクトが具体化してしまった。近い将来、ググムさんやイスメットくんとは改めて一緒に仕事をすることになるかもしれない。

 

9月18日(土)

 今日も7時には起床。今日のレコーディングのための準備をはじめる。10時過ぎにはスタジオに向かい、参加してくれるミュージシャンたちに挨拶。チェピーくんも11時頃には到着してので、さっそくセッティングをスタートした。そうこうしているうちに、今日のセッションの最重要人物スワンダさんがスタジオに到着。彼も交えてサウンド・チェックを済ませて、お昼頃には録音をスタートさせた。
 スワンダは、ジャイポンの創始者であるググム・グンビーラがこの音楽を発明したときのセッションからずっと一緒に働くクンダン奏者。ジャイポンの要であるクンダン奏者の最高峰とも言える人物だ。サンバスンダのイスメットくんの話によると、ジャイポンが誕生して以来、スワンダは次々と新しいリズムや演奏スタイルを開拓。イスメットくんや若い音楽家たちは、いつもスワンダが次にどういうリズムを生み出してくれるのかと、ワクワクして新作カセットが発売されるのを待ったのだそうだ。
 そんなスワンダさんだから、スタジオに入ると若い音楽家たちはみんな緊張した面持ちになる。今回はスワンダさんのグループのメンバーだけでなく、そこにバンドゥンの若い音楽家たちを加えて録音してもらったのだが、おかげでいつものスワンダ・グループとは一味違った、緊張感あふれる若々しい演奏を録ることができた。
 レコーディングの後は、ちょうどググム・グンビーラも仕事から帰ってきたので、スワンダさんとググムさんに、ぼくとベン・マンデルソンがインタビューすることにした(通訳はイスメットくん)。ググムさんとは10年ほど前にインタビューしたことあったのだが、一人に聞くより2人に一緒に聞いたほうが、昔のことを思い出してくれる。結局、今日の方が、ジャイポン創世の時代の話やスワンダさんが関わったそれ以前の音楽について、貴重な話をたくさん聞くことができた。このあたりの詳しいことについては、アルバムが完成したときに解説原稿でじっくり紹介することにしよう。

 今日のもうひとりのゲストが、女性歌手のヌヌン・ヌルマラサリさん。彼女は午後早い時間にやってきて、ベーシックの録音からずっと最後まで付き合ってくれた。とても素敵な女性で、歌も最高。キュートなコブシ回しを楽しませてくれる。今日は彼女の歌を録音した後にいくつもの楽器をオーヴァー・ダブしたので、彼女の歌は何度も何度も聞き返すことになったのだが、聞くたびに引き込まれることになった。これだけ聞く人を疲れさせない歌声を持つジャイポン歌手というのも珍しいのではないかと思う。

 レコーディングの初日はどうしてもセッティングに時間がかかる。結局、予定したレコーディングが終わったのは午前1時過ぎ。ヘトヘトになったホテルに戻り、明日の準備をすませて、午前2時にはベッドに倒れこんだ。

 

9月17日(金)

 今日はジャカルタからバンドゥンへの移動日。でもその前にグマ・ナダ・プルティウィのスタジオに行って、ジャカルタでレコーディングする音楽家たちと打ち合わせをしないといけない。昨晩は3時過ぎまで起きていたのに、今日も早起きして、打ち合わせのための準備に取り掛かった。かなり眠たかったが、仕事だから仕方がない。ぼくよりもっとかわいそうなのはベンで、時差ぼけのせいか、思い切り疲れた顔をしている

 10時からジャカルタでのレコーディングに参加する音楽家たちと曲目の打ち合わせ。レパートリーはだいたい考えてきたのだが、彼らがそれらを出来るかどうかをじっくりと確認した。また、それ以上に問題になったのが、ジャカルタでのセッションで使うスタジオで、プルティウィ社に探してもらっていたのだが、どうしてもちょうど良いサイズのスタジオが見つからなくて、困ってしまった。プロ・トゥールズのようなデジタル機器を備えたスタジオは、どこもレコーディング・ブースが小さくて使えない。アナログ・スタジオを含めて探してもらっても同じだった。いまのインドネシアでは、大編成のグループを一発録りすることができるようなスタジオはそうはないということだろう。プログラミング・サウンドが主流のインドネシアではそれも仕方ない。結局、無理を言って、2ヶ月先まで予約が埋まっていたプルティウィ社のスタジオ(ここはクロンチョン・バンドを一発録りすることができるスペースがある)を使わせてもらうことになった。

 午後1時半の汽車でバンドゥンへ。プルティウィ社のジャカウィナタくんも同行してくれることになったので、3人での旅行になった。ジャカウィナタくんの話によると、この汽車に政治家か国の重要人物が乗っているとかで、汽車はいつもよりもスピードをあげて走っているらしい。たしかに先週行ったときには3時間半かかったのに、今日は3時間ちょっとでバンドゥンに着いてしまった。
 さっそくホテルにチェックイン。すぐにジュガラ・スタジオのチェピーくんに電話して、明日からのレコーディングの段取りについて話し合うことにした。ジュガラ・スタジオではアルバム2枚分の録音をすることになっているのだが、そのエンジニアリングだけでなく、音楽家たちのコーディネイトもしてくれているのがチェピーくん。本業はジュガラ・スタジオのエンジニアなのだが、スンダの伝統音楽についてはかなり詳しく、音楽家のほとんどを知っているので、今回は彼らとの仲介役をお願いしたのだ。ただ、今回はジャカウィナタくんを経由してチェピーくんにお願いしているので、勘違いがないかどうか、確認しておかないといけない。そこで打ち合わせをしたのだが、案の定、いくつかの勘違いを発見。さっそくチェピーくんはアチコチに電話して、スケジュールを整えなおすことになった。

 その後は、ベン・マンデルソンが一度は見てみたいというので、みんなでジャイポン・クラブに行くことに。ジャイポン・クラブとは、文字とおり、ジャイポンの生演奏を見れるところで、同時に女性と一緒に踊ることもできる(というか、ほとんどのお客さんは、生演奏を見るためでなく、お店の女性と踊る目的でそこにゆく)。ただ、ジャイポンのダンスはあまりに難しくて、ぼくら素人にはなかなか踊れない。結局、チェピーくんのすばらしいダンスを見せてもらうだけで、11時にはホテルに戻ることになった。

 

9月16日(木)

 移動の飛行機で寝てしまったせいか、夜はあまり寝付けず、結局読んでいた本を閉じてベッドにもぐりこんだのはシンガポール時間の午前4時。それから4時間ほど眠って、8時には起き出した。というのも、今日はリストの作成日。これはどこの国にいても変わらない。さっそくブラジルから送られてきた資料をチェックしながら、リスト原稿に取り組んだ。
 今週はブラジルものに注目作が多い。そして偶然、ライスからの新作もブラジル新世代ものになった。これは宮川くんの担当。最近、当社からのブラジル音楽のリリースは少なかったが、これからは彼が担当するアルバムが少しずつ多くなるかもしれない。

 原稿は11時までに終わらせて、お昼はライフ・レコードのオスマン・アリフィンくんとホテルの近くのマレイ料理屋さんで昼食。その後は、つい最近引っ越したばかりというライフ・レコード・シンガポール支社の新しい事務所を訪れた。新しいビルに事務所を構えたようだが、なんとお隣の部屋はエイベックスの事務所。ほかにも日本のレコード会社が同じビルに事務所を出しているらしく、まるでレコード会社ビルだ。ちなみに、ぼくがライフを最初に訪れたのは、もう12年くらい前だが、その頃は事務所がインド人街にあって、すぐ裏が売春街という、すばらしいロケーションだった。今回は事務所に新しいスタッフ(女の子)も入っていて、以前とはまったく雰囲気が違う。しばらく来ないうちに、ライフはすっかり洗練された会社になったみたいだ。
 オスマンくんの話によると、最近売れているのはVCDばかりで、マレイ音楽の新作はほとんど作っていないのだそうだ。特に伝統ものは売れなくて困っているのだとか。その理由は、VCDファンがカラオケ好きばかり。でも伝統的な歌は、そういう人には難しくて歌えないからだろうと言っていた。そう言えば、シティ・ヌールハリザもしばらく本格的な伝統ものアルバムを作っていないし、ノラニーザ・イドリスはスリア・レコードをやめてしまった。マレイシア音楽もここにきて難しい状況になってきているようだ。
 ただ、そんなライフも、年末には気合を入れて、久しぶりにザレハ・ハミッドのアルバムを作ろうかと思っているのだとか。ザレハは、もちろんぼくは昔から大ファンで、一緒にレコーディングの仕事もしたことがあったが、もしばらく新作を出していない。それだけに、もしライフから新作が出るとしたら、これは嬉しいニュースだ。オスマンくんによると、アコーディオンをメインにした、シンプルな内容のものを作りたいのだとか。それなら内容も期待できる。もしも良いものに仕上がったら日本でもライスから発売させていただきたい。

 3時半の飛行機でジャカルタへ。ジャカルタ時間の4時半に到着。税関などでも問題なく、道路も思ったほど込んでなかったので、午後6時過ぎにはホテルに着いた。食事を近くのパダン料理屋さんですませて、交通渋滞がなくなる8時過ぎになってから、以前行きつけだったホテルのバー・ラウンジに顔を出して、少しリラックスする。最後にここに来たのは、もう5年以上前のはずだが、当時から働いていた人がいまも残っていて、久しぶりの再会を喜びあった。レコーディングの仕事をしていると、音楽とはまったく関係のないこういう場所が欲しくなるときがある。たまには音楽から離れないと、頭がパンクしてしまうからだ。きっと今回も、このホテルには、ジャカルタで過ごす間には何度か来ることになるのだろう。

 12時過ぎに滞在するホテルに戻ったら、少したってベン・マンデルソンがホテルに到着。ロンドンからドバイとバンコックを経由してやってきたのだそうで、さすがに疲れた表情をしてた。それでも、寝る前にミルク・ティーを飲みたいなんていうところは、いかにもイギリス人だ。ホテルのレストランはしまっていたので、近くのパダン料理屋さんに無理をお願いして作ってもらい、お茶を飲みながら、2時間ほど、明日からの仕事の段取りについて話し合うことにした。いくら疲れていても、音楽の話になると時間を忘れて夢中になってしまうところは、さすがにプロデューサーだ。結局、ベッドにもぐりこんだのは午前3時。今日も長い一日だった。

 

9月15日(水)  

 今日の夜の便でシンガポールに出発するせいで、朝から大忙し。経理仕事をできるところまでやったり、忘れていた支払いを済ませたり、ライス盤の解説原稿を書いたりしていたら、もう午後2時過ぎになってしまった。事務所から昌くんに必要なものを持ってきてもらい、あわてて荷造りをして、出発したのが3時半。5時半には成田に着いて、チェックインしたところでやっと一息つけた。ここで朝から何も食べてなかったことを思い出して、おすし屋さんで食事。ビールを一杯だけ飲んだら、すっかり良い気持ちに…。
 疲れていたせいか、飛行機では食事も取らず、映画も見ずに熟睡。気がついたら、もうシンガポールの近くだった。もう夜中の1時。それからホテルに向かって、1時半にはチェックイン。今回も前回と同様、マレイ・ヴィレッジの近くのホテルに宿泊することにした。

 

9月14日(火)

 明日の夜の便でシンガポールに向かうことを、昨日の午後に決定した。17日からインドネシアでのレコーディングが決まったからで、いよいよ念願のバンドゥンでの仕事に取り掛かることになった。
 今回同行するのは、イギリスのベン・マンデルソン。グローブスタイルやピラーニャでの仕事で知られる、イギリスを代表するワールド・ミュージックのプロデューサーだ。ぼくとの共同プロデュースで、インドネシア音楽の新作アルバムを作ろうというアイディアは、昨年のウォーメックスで知り合ったときに生まれたものだが、その後はお互いに忙しく、やっと今回出来ることになった。ベンとはすでにメールでアイディアの交換を3ヶ月前くらいからやっている。先の旅行で参加ミュージシャンもほぼ決まり、これでやっとスタートということになったわけだ。
 内容についてはまだまだ未定の部分が多いので、いま書いても仕方ない。出来上がった部分から、日記で随時書いてゆこうと思うので、楽しみにしていてください。

 

9月13日(月)

 やっと体調が戻ってきた。熱はすっかり下がったし、活力も戻ってきたので、朝から原稿書きを頑張ることに。今朝書いたのは、山内雄喜の新作『ハワイアン・マスターピーセス』(ライス OSR-706)の解説だ。ちょうど先週仕上がったマスタリング済みのCDRを聞きながら、イントロの部分だけ書いて事務所に送った。
 今回のアルバムは、(いちおうぼくのプロデュースになっているが)コンセプトなどはぼくが決めているものの、選曲やアレンジは山内さん自身のアイディアでやった曲がほとんどで、だから曲目解説は山内さんに書いていただいた。最近はレコーディングがすごく多い山内さんだが、これほど自分のやりたいように作ったアルバムというのは、珍しいのではないかと思う。内容は、もちろんバツグン! 来月最初の日曜日にはお店に並んでいるはずなので、ぜひ聞いていただきたい。

 

9月12日(日)

 熱も下がってきたようだし、天気もすごく良いので、掃除と洗濯を片付けることにした。風邪でたっぷり汗をかいていたので、久しぶりに布団を干せたのは嬉しい。夜はJリーグの浦和の試合を楽しむ。結果は4対0の大勝。代表組も久しぶりに全員戻って、浦和はいま絶好調のようだ。

 

9月11日(土)

 昨日に続いて、薬を飲んで一日中寝て過ごす。薬のせいか、信じられないくらい眠れる。今日だけで20時間くらい寝たのだろうか。

 

9月10日(金)

 昨日はガマンして仕事したが、今日はもうダメ。どうにも熱が下がらないので、解熱剤を飲んでゆっくり寝ることにした。こういうときは音楽も聞く気にならないし、本を読んでもアタマに入らない。仕方がないから、ひたすら眠ることにした。

 

9月9日(木)

 昨日、冷房の効いた飛行機の中で寝てしまったせいだろう、ちょっと風邪をひいたようだ。朝から熱が出て、身体がダルい。先月みたいにヒドい状態ではないが、やっぱり旅行中は知らず知れずのうちに疲れをためているのだろう。それでも今日はリスト作成の日。ゆっくり休んでなんかいられない。日本にいない間に送られてきたインフォをチェックして、なんとか午後早い時間にはリストを作り上げる。どうもレニーニの新作ライヴ(ただし曲目は新曲ばかり)がもうすぐ発売になるようだ。

 ぼくのいない間にブラジルから荷物が到着。今日はトルコからも新作が入ってきたようだ。ともにまだ全然チェックしていないが、トルコのほうには先にライスで発売したゼキ・ミュレンに続くオデオン音源がまとまって復刻されたらしく、現物を見るのが楽しみだ。最近トルコでは、あの復刻専門レーベル、カラン以外にも優れた復刻盤アルバムを出す会社が増えてきているようで、過去のトルコ音楽はだんだんと幅広く聞けるようになってきた。こうして過去の音源が再評価されているということは、歴史が見直されているということの証明だ。その中で誕生する新しい音楽にも、当然そんな歴史的な視点も加わることだろう。それはトルコ音楽にとって良い事だとぼくは思う。

 

9月8日(火)

 なんと朝6時20分発の飛行機で帰国。途中シンガポールでトランジットして、夕方5時過ぎに成田に着いた。飛行機での移動は、別に何をしているわけでもないのに、なぜか非常に疲れる。今日も帰宅したらグッタリ。夜9時からサッカーのワールド・カップの予選を見ながら食事をしていたら、もう眠たくなってきた。ここで無理をすると、また体調をおかしくする。今日は早く寝ることにしよう。

 

9月7日(火)

 朝7時に起床。プールでひと泳ぎしてから朝食を取り、9時過ぎには再びプルティウィ社へ。ジャカルタの交通渋滞は本当にヒドく、午前7時から9時まではメイン・ストリートが車でギッシリ。全然動かない。だから今日はそれを少しハズして出発したのだが、それでも中心街のハルモニあたりでは渋滞にぶつかってしまった。空いていたら10分で行けるところのに、結局30分以上かかってやっと到着。

 今日はジャカルタでのレコーディングで一緒に仕事をすることになる音楽家たちと打ち合わせ。彼らはどうもバイクでやってきたらしく、ぼくより早く着いていた。ジャカルタの古い音楽にガンバン・クロモンとタンジドールがあるが、今日会ったのはそれらのバンドのリーダーたちだ。これらは中国系の音楽がインドネシア化したものと思ってもらえば良いかもしれないが、タンジドールではブラス・セクションも使われ、日本のチンドン屋さんっぽいところもあって、非常に面白い。こういった音楽のカセットもインドネシアでは出ているが、なかなかCDにならないので、ここはひとつクォリティの高いものを作ろうじゃないかとプルティウィ社と話し合っていたのだ。でも、ただガンバン・クロモンやタンジドールをそのまま録音しても面白くない。そこで新しいアイディアを加えたいと思ったのだが、ぼくがひとりよがりでそんなことを考えても、彼らができないというのでは仕方がない。そこでぼくの考えるアイディアが実現可能なものかどうかを確認した。結局、こちらが思っていたほど難しいことではないらしく、全然大丈夫だと言われてひと安心。インドネシアの伝統音楽家たちはぼくらが思うよりもずっと柔軟性がある。

 ヘンダルミンさんに再び昼食をご馳走してもらった後にホテルに戻って、あとはゆっくり。移動が多い旅だったので、疲れたのだろう。昼寝をしたのに、夜は9時には眠たくなってしまった。

 

9月6日(月)

 昨晩はホテルに戻ったのが1時過ぎ。でも今朝は早く起きて、バンドゥンで一番のディストリビューターというトピック・レコードの事務所を訪ねて、カセットやCDを見せてもらった。さすがにこちらにくると、ジャカルタでは見れないようなスンダ音楽のカセットがたくさん買える。ただし、カセットでは新作がたくさんあっても、ほとんどCD化されていないのは、ダンドゥットなどと同じ。だからここでも買ったのはほどんとがカセットだった。

 お昼12時の汽車でジャカルタに帰るつもりで駅に着いたら、発車が遅れているとか。結局駅で1時間以上も待たされ、ジャカルタへの到着も1時間半近く遅れた。それでも誰も文句を言わずに待っているのだから、インドネシア人たちは気が長いとしか言いようがない。ジャカルタではもう一度カセット・ショップに行こうと思っていたが、それは諦め、プルティウィ社で今後の仕事について軽く打ち合わせしてから、ジャカルタで使う予定のスタジオを見学することに。こちらは普通のプロ・トゥールズ・スタジオだが、まあなんとか使えるだろう。それを確認して、そのままホテルにチェックイン。疲れていたのか、夕食もとらずに9時過ぎには就寝。

 

9月5日(日)

 昨晩は早く寝たので爽快な目覚め。ジャカルタはさすがに暑いけど、今年の日本の夏で暑さに慣れてしまったのか、さほど苦に感じない。滞在したホテルは安いのにプールがついているので、朝ごはん前にひと泳ぎ。ちょっとだけ南国での観光気分を味わうことができた。

 午前中に取引先のグマ・ナダ・プルティウィ社の事務所を訪れて打ち合わせ。社長のヘンダルミン・スシーロさんとはもう10年以上の付き合いだが、前回会ったのはたしか日本。ジャカルタの事務所を尋ねるのは本当に久しぶりだ。インドネシア音楽のファンの皆さんはご存知だと思うが、プルティウィ社はいまのインドネシアでは唯一クロンチョンの新録アルバムを発表するなど、伝統的な音楽に力を入れている会社だ。ヘンダルミンさんは、他のレコード会社の社長さんたちと同様に中国系だが、きっとインドネシアの音楽が本当に好きなのだろう、他の会社のようにその場限りの金儲けに走ることなく、伝統的な音楽を着実にリリースしている。ぼくが長い付き合いをしているのもそのせいだ。なんでもプルティウィ社では、インドネシアでははじめてとなるクロンチョンのDVDをもうすぐリリースするとか。相変わらず気合が入っている。
 打ち合わせの後は、そんなヘンダルミンさんに在インドネシアの華人たちのパーティに連れて行ってもらって、エラい人たちの中国語のスピーチを聞きながら昼食をいただいた。スハルト時代には禁止されていた中国語もいまでは使えるようになり、パーティ会場には中国語の文字が溢れていたのが印象的だった。

 午後3時半の汽車でバンドゥンへ。ここではヘンダルミンさんの息子であるジャカウィナタくんが同行してくれた。バンドゥンはスンダ地方の中心都市で、かつてスカルノ大統領の時代にアジア・アフリカ会議が持たれた街だ。高原にあるせいでジャカルタより格段に涼しく、過ごしやすい。そのため週末にはジャカルタから大挙して観光客がやってくるらしく、今日は日曜日なので、駅にはジャカルタに戻ろうとする人たちが溢れていた。
 今回の大きな目的は、バンドゥンのジュガラ・スタジオを訪れること。ここはジャイポンガンの創始者と言われるググム・グンビーラが所有するスタジオで、スンダ地方の伝統的な音楽の制作を専門とする、バンドゥンでももっともユニークなスタジオだ。実は近いうちにこのスタジオでライスの新作アルバムのレコーディングを予定していて、今回はジュガラ・スタジオのチーフ・エンジニアのチェピーくんとその段取りについて打ち合わせすることになっていたのだ。
 ジュガラを訪れた外国人は、ぼくが知っているだけでも何人もいる。そのひとりがあのサバ・ハバス・ムスタファだ。当社で配給している彼の前作は、このスタジオで録音されたもの。また、同じく当社で配給しているサンバスンダのほとんどのアルバムもこのスタジオでの録音と、スンダ地方の伝統音楽をやろうと思ったら、みんなこのスタジオを使うのだ。スンダの伝統的な音楽の拠点と言っていいだろう。
 チェピーくんは、ほぼぼくと同世代だが、優れたエンジニアであるだけでなく、最高のジャイポンガン・ダンサーでもある。前作訪れたときには、ジャイポン・クラブに連れて行ってもらい、すばらしい踊りを見せてもらった。きっとこれがググム・グンビーラ直伝のダンスなのだろう。ただし今回は、そんなジャイポン・クラブに行く時間はない。レコーディングの段取りや参加ミュージシャンの人選を綿密にディスカッションしていたら、夜11時過ぎになってしまった。それからみんなで軽くビールを飲んで、ホテルに戻ったら、もう12時。すぐにベッドにもぐりこんだ。

 

9月4日(土)

 さすがに疲れていたのか、目が覚めたらもう午前10時。ゆっくりシャワーを浴びて、ホテルをチェックアウトしてから、近くのマレイ料理屋さんで昼飯を食べることにした。今回のホテルはシンガポールの取引先であるライフ・レコードが予約してくれたのだが、担当者がマレイ系だったせいか、ホテルの場所はマレイ・ヴィレッジのすぐ横。マレイ人が多く住んでいる地区だ(たしかマレイシア音楽を代表するアコーディオン奏者S・アタンが生まれた場所のすぐ近くのはずだ)。そのため、マレイ料理屋さんは多いし、カセット/CD・ショップもマレイ系オンリーのところが多い。ぼくとしては絶好のロケーションだった。
 もちろんマレイシア音楽のCDは当社でいつも輸入しているので、わざわざ買うようなものはない。でも、P・ラムリー映画のVCDが新しいパッケージングで出ていたので6本だけ買った。もちろん、選んだのはサローマが共演している映画。両者の歌うシーンが出てくるはずなので、見るのが楽しみだ。前回のシリーズは50本ほど持っているのだが、今回のほうが装丁が格段にキレイ。もしも日本でニーズがあったら輸入してもいいかもしれない。

 午後3時過ぎの便でジャカルタへ。時差があるので現地時間の4時過ぎに到着。今回は荷物が少なかったせいか税関のチェックも珍しく早く終わり、土曜日ということで道が空いてたので午後5時過ぎにはホテルにチェックイン。非常に珍しくタクシーの運転手さんも良い人だったし、信じられないくらいスムーズだった。久しぶりのジャカルタだから、きっと神様もあまりストレスを与えないように気を使ってくれたのかもしれない。
 さっそくホテルの近くのカセット・ショップに行って、新作をチェック。はじめてインドネシアに来た頃は、音楽産業も盛況で、行くたびにどんどん新作が出ていたが、さすがにいまは旧作のリイシューを含めてやっと同じ数のアルバムが並んでいるという感じ。さすがにかつてのような勢いは感じない。ただ、CDコーナーをザッと見たところ、目ぼしいものは当社ですでに輸入しているようだが、それでもカセットのコーナーを見るとに、やはり見たことのない歌手のアルバムはけっこう多い。ポップ・インドネシアものを除けば、CD化されている音源は全体の20%くらい、という感じだ。今日だけで思わず15本ほど買ってしまったが、懐かしいスンダの歌姫デティ・クルニアの新譜を見つけたのは大収穫。彼女はまだ歌っていたことを知って、本当に嬉しくなった。ジャケットに映る彼女は、以前以上にポッチャリしているが、表情は元気そうだ。もしも内容が面白かったら、レコード会社にCD化をお願いしてみてもいいかもしれない。

 夜は、以前ワルジーナの日本公演のヴィザや航空券を手配してくれた旅行代理店の人とパダン料理屋さんで食事。昼のマレイ料理に続いてスパイシーな料理に舌鼓を打った。それからホテルに戻って、今日もまったくアルコールを飲むことなく11時に就寝。

 

9月3日(金)

 朝は会社で雑務仕事。午後から自宅に戻って旅行の準備。午後3時に自宅を出発。5時には成田でチェックインを済ませた。今日の便は、夜7時過ぎの便で成田を出発し、現地時間の深夜1時過ぎにシンガポールに到着という、はじめてシンガポールに行く人なら絶対に使いたくない時間設定。でも、その分チケット代は安い。明日の便はいっぱいだし、これしかなくて、しかも安いのなら、仕方がない。
 シンガポールは空港から市街地が離れていないので、ホテルには20〜30分後に到着したが、それでもさすがに仕事した後の旅だから、疲労を感じる。もうクタクタという感じだ。でも、妙にお腹は空いている。金曜の夜ということで、近くのレストランはどこもまだ人がたくさんいるので、そのうちのひとつに飛び込んで、軽い食事をしてから寝ることにした。シンガポールで寝る前に食べるのは、いつもおかゆの料理。これなら胃にもたれないし、値段も安い。深夜にビールを飲みながら豪勢な料理を食べている華人たちの逞しい姿を眺めながら、こちらはアルコールも飲まないでさっさと食事を済ませ、2時過ぎに就寝。

 

9月2日(木)

 朝は木曜恒例のリスト作り。今週は西アフリカを代表する男性歌手のひとり、モリ・カンテの新作『サブ』(ライス WNR-557)をメインに紹介した。
 モリ・カンテというと、ぼくらは80年代後半の大ヒット「イェケ・イェケ」を思い出してしまうが、ワールド・ミュージック・ブームの幕開けになったあのヒット曲と今回のアルバムで歌うモリ・カンテとでは、まるで別人だ。今回のアルバムはアクースティック楽器による伝統路線。グリーオ出身で自身のルーツに戻った感じ、と言えばわかりやすいだろう。ただ、もちろん民俗音楽のアルバムではなく、彼らしいポップ・センスは随所に感じられる。ぼくには、伝統路線でこういう抑え目に出たポップ・センスのほうが、いまは親しみやすい。アフリカ音楽のディープなファンはもちろん、西アフリカの伝統的なスタイルを聞いたことのない初心者にも強くお勧めしたい1枚だ。

 昨晩になって、明日からインドネシアに行くことを決心した。先月病気で行けなかったので、やらないといけないことがたくさん残っている。それを早く片付けたかったからだ。ただ、これから夏休みをとる人も多いのか、いきなりチケットを取るのは難しいらしく、土曜のフライトはすでにいっぱい。仕方なく、金曜の夜にシンガポールに飛んで、土曜にジャカルタに入るというスケジュールになった。土日はジャカルタで仕事。月曜はバンドゥンで打ち合わせ。火曜日はまたジャカルタで仕事して、水曜日に帰国するという強行軍だ。今回は前回みたいに病気になるわけにはゆかない。しっかり体調を整えて出発することにしたい。

 

9月1日(水)

 朝早起きして解説原稿書き。午前中になんとか終わらせて、午後は海外の取引先に送金するために銀行へ。本当は昨日終わらせておきたかったのだが、書類の整理に手間取って、今日にズレ込んでしまった。
 月末の支払い時期になるといつもアタマにくるのが、銀行が3時で終わってしまうことだ。役所が5時に終わってしまうのも困るが、銀行はそれより2時間も早く閉まるのだから、ますます困る。しかも月末はすごく混むし、銀行仕事だけで一日が終わってしまうことすらあるから、イヤになる。
 もちろん、いまは外国送金もコンピュータでできることは知っている。でも、当社の取引先はアメリカやヨーロッパのように、送金しやすい国ばかりではない。国によっては、もしもお金が着かなかった場合も文句を言わないという同意書を書かないと送ってくれないところもある。こういうのがひとつあるだけで、もうコンピュータ送金だけではすまなくなる。どうしても窓口に行かないといけない。しかも、送る件数があまりに多いから、窓口に書類を全部出してから1時間も待たされるなんてザラだ。特に今日は、9月の移動時期ということで、窓口に座っていたのは移動してきたばかりの新人さん。明らかに手際が悪く、ますます遅れてしまった。先月身体を壊した理由が過労とストレスだったようで、それからは出来るだけイライラしないように努力しているのだが、今日はさすがにガマンできない。新人さんには気の毒だが、後ろで別の作業をしていた前からの担当者を呼んで、手助けするよう要請した。怒鳴らないようには努力はしたが、きっと顔は怒っていたのだろう。新人さんはおびえた表情をしていた。
 こんな日は、イライラが身体を疲れさせるのだろう。その後も仕事はなかなか進まない。せっかく気合を入れなおしてスタートした9月の最初の日なのに…。

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